米国グリホサート訴訟を巡る政治的・法的・経済的構造転換


東京大学名誉教授

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1. 要約

2025年12月、米国におけるグリホサート(ラウンドアップ除草剤の主成分)を巡る長年の法的・政治的紛争は重大な局面を迎えた。ドナルド・J・トランプ政権による強力な行政介入、司法省法務総監による連邦最高裁判所への法廷助言書提出、そして議会における複雑な立法工作が重なり合い、バイエル社が直面する数万件規模の集団訴訟がすべて却下される事態が現実味を帯びている。

トランプ政権の戦略は、単なる規制緩和にとどまらず、州レベルでの不法行為法に基づく警告義務を連邦権限によって積極的に排除する「攻撃的連邦主義」への転換を示唆している。一方で、この方針は政権内のMAHA(米国を再び健康に)派閥との深刻なイデオロギー的亀裂を生じさせており、長期的な政治リスクを内包している。また、司法判断が企業の免責へと傾く可能性が高まったことで、大規模不法行為訴訟への投機的資金提供が急速に縮小している。

2. トランプ政権の戦略的介入:大統領令と司法省の動向

2025年1月に発足した第2期トランプ政権は、エネルギーおよび農業セクターにおける「米国第一主義」を掲げ、企業の生産活動を阻害する規制の撤廃を最優先課題とした。その頂点にあるのが、2025年4月8日に署名された大統領令「州の行き過ぎた権限行使からの米国のエネルギー保護」である。

この大統領令は、表題こそ「エネルギー」を冠しているが、その実質的な対象は農薬を含む広範な産業分野に及んでいる。それは、州や地方自治体が憲法や連邦法の権限を超えて、国家の安全保障や経済的繁栄に不可欠な農産物などの資源の開発・流通を阻害することを「違法な障壁」と定義し、これを排除することを連邦政府の責務としている。そして、行政管理予算局(OMB)および各省庁に対し、州による規制が連邦政策と矛盾する場合、連邦法の優越を積極的に主張・行使するよう指示している。これは、従来の共和党が重視してきた「州権の尊重とは一線を画す、連邦権限による州規制の無力化戦略である。

この政策は、直ちに環境保護庁(EPA)の政策に反映された。リー・ゼルディンEPA長官の下、同庁はEPAのリスク評価に反する州独自の警告表示義務、特にカリフォルニア州のプロポジション65に基づく発がん性警告を「虚偽の表示」と断定し、連邦殺虫剤・殺菌剤・殺鼠剤法(FIFRA)に基づく表示承認権限を用いてこれを阻止する姿勢を鮮明にした。

行政的な圧力に加え、トランプ政権は司法の場においても決定的な行動に出た。ロイターなどの報道によれば、2025年12月1日、D. ジョン・サウアー司法省法務総監は、連邦最高裁判所に対し、バイエル社側の上告を受理し、下級審判決を破棄するよう求めた。

サウアー法務総監が展開した法的主張は、以下の三点に集約される。

排他的権限の確認: グリホサートの安全性評価はEPAの専権事項であり、EPAが「発がん性はない」と結論付けた以上、州の陪審員がこれと異なる科学的見解に基づいて損害賠償を命じることは、連邦機関の権威を侵害するものである。

不可能性の抗弁: 企業が州法(警告義務)に従ってラベルを変更しようとすれば、EPAの禁止命令(連邦法)に違反することになる。サウアー氏は「EPAが特定の健康警告を表示すべきと指定した場合、製造業者は州ごとの異なる表示要件に従うことを強制されるべきではない」と主張した。

政策の一貫性と産業保護: バイデン政権下の2022年にエリザベス・プレロガー法務総監が示した「FIFRAは州の不法行為訴訟を排除しない」という見解を覆し、トランプ政権として「企業の予見可能性」と「農業生産の安定」を最優先する法的立場を確立した。

この動きは、行政府が司法府に対して「州による訴訟の波を止めるべきだ」という強力なシグナルを送ったことを意味しており、最高裁における保守派判事の判断に決定的な影響を与える可能性が高い。

3. 「MAHA」のパラドックスと内部対立

トランプ政権のグリホサート擁護姿勢は、選挙戦で掲げられた「Make America Healthy Again(MAHA)」運動、そしてその象徴であるロバート・F・ケネディ・ジュニア厚生長官の立場を極めて危ういものにしている。ロイターは、この動きが政権にとって「農業団体の懸念に対処しつつ、農薬のリスクを訴えるMAHA支持者とも向き合わねばならない」という難しいバランスを強いていると指摘している。

ケネディ厚生長官はかつて、モンサントに対する最初のジョンソン裁判の画期的な勝訴に関与した弁護団の一員であり、グリホサートを「毒物」と断じていた。しかし、政権入り後の彼の言動には、明白な「戦略的沈黙」あるいは「妥協」が見られる。彼は上院歳出委員会での公聴会において、グリホサート規制に関する質問に対し、「米国の農家を廃業に追い込むような措置は取らない」「トウモロコシ生産の100%がグリホサートに依存しており、そのビジネスモデルを危険に晒すことはしない」と証言した。これは、彼の優先順位が「即時的な化学物質排除」から「農業経済の維持」へとシフトしたことを示しており、トランプ大統領および農業ロビーとの政治的取引の結果であると推測される。

2025年5月に発表されたMAHA委員会の報告書は、この矛盾を如実に反映していた。そこでは、超加工食品、ワクチン、医薬品の過剰摂取については詳細な警告が含まれていたものの、グリホサートやアトラジンのような主要な除草剤に関しては、具体的な禁止勧告や厳しい規制案が盛り込まれず、単なる「研究の必要性」への言及にとどまっている。

この内容は、MAHA運動を支えてきた有機農業団体や環境保護活動家から「裏切り」として激しく批判されている。エリザベス・クシニッチ(デニス・クシニッチ元下院議員の妻、元食品安全センター幹部)は、司法省の動きを「公衆衛生の保護ではなく、規制の虜そのものである」と断罪した。

トランプ大統領にとって、MAHAは「健康意識の高い有権者層」を取り込むための選挙ツールとしては有効であったが、統治段階においては、共和党の主要支持基盤である農業界や化学産業の利益が優先されている。ケネディ厚生長官の影響力は、農薬などの産業界の利益を脅かさない範囲、すなわち「個人のライフスタイル改善」や「食品添加物の見直し」といった領域に封じ込められているのが実情である。

4. 議会における攻防:OBBBAから歳出法案まで

司法判断を待たずに問題を解決しようとする産業界の圧力は、連邦議会においても激しい攻防を引き起こしている。2025年には「One Big Beautiful Bill Act(OBBBA)」の成立と、それに続く歳出法案での付帯条項闘争という二段階で展開された。

2025年7月4日、トランプ大統領は包括的な予算調整法案「One Big Beautiful Bill Act(H.R. 1)」に署名した。この法律は主に税制改革、作物保険の拡充、農業セーフティネットの強化(総額660億ドルの新規投資)を目的としたものであった。当初、下院農業委員会が提案した農業法案には、州による独自の農薬表示を禁じる「セクション10204」が含まれていた。しかし、OBBBAは予算調整措置を用いて通過したため、上院の「バード・ルール(予算に直接関係のない条項の排除)」や民主党の抵抗により、この物議を醸す免責条項は最終的な法律からは除外されたか、限定的な形にとどまった可能性が高い。これにより、産業界は別のルートを模索する必要に迫られた。

OBBBAでの完全な免責獲得に失敗した産業界は、2026会計年度(FY2026)の農業歳出法案にターゲットを移した。共和党主導の下院歳出委員会は、産業界の意向を反映し、EPAの予算執行において「州独自の農薬表示義務を無効化するための資金」を含める、あるいは逆に「州が表示義務を課すことを容認する活動への支出を禁じる」といった付帯条項を盛り込んだ法案を通過させた。一方、上院歳出委員会(全会一致で通過)の法案では、このような極端な免責条項は除外されているか、あるいは修正の対象となっている。

並行して議論されているのが「Ending Agricultural Trade Suppression (EATS) Act」である。これは主にカリフォルニア州の動物福祉規制(Prop 12)に対抗するものだが、その法理(一州の規制が州間通商を阻害してはならない)は農薬表示問題とも密接にリンクしている。この法案の成否は、今後の農薬規制のあり方を占う試金石となるが、地方自治権の侵害を懸念する超党派の反対に直面しており、成立は予断を許さない状況にある。

5. 集団訴訟の行方

議会での決着が長引く中、すべての視線は連邦最高裁判所に注がれている。最高裁が介入する最大の動機となったのが、連邦控訴裁判所間での判断の割れである。第9・第11巡回区で裁判所は「FIFRAは州の不法行為訴訟を完全には排除しない」と判断し、原告勝訴の判決を支持した。他方、第3巡回区においては、裁判所は「EPAが警告ラベルを承認しない以上、州法での警告義務を履行することは不可能」として、連邦法の優越を認める画期的な判決を下した。

現在、最高裁の判断を仰いでいるのが、ミズーリ州裁判所での125万ドルの賠償命令に対し、バイエル社側が上告している件である。2025年12月1日の司法省法廷助言書提出により、最高裁がこのケースを受理する確率は極めて高まった。もし最高裁が司法省および第3巡回区の論理を採用すれば、現在係属中の6万件以上の訴訟の大半は法的根拠を失い、却下されることになる。

6. 産業界の歓喜と消費者団体の激怒

バイエル社および農業団体は、トランプ政権の介入を「常識の勝利」として熱狂的に歓迎している。ロイターの記事によれば、この司法省の動きはバイエル社にとって数年来の懸案であった訴訟リスクを解消する決定的な一打と受け止められた。バイエル社 CEOビル・アンダーソンは、「米国政府の支援は、規制の明確化を必要とする農家にとって朗報である」とし、これが同社の訴訟終結に向けた「多角的戦略」の決定的なピースであると述べた。

バイエル社は、現在未解決となっている約67,000件の訴訟や、将来提起される可能性のある請求に対する支払いや和解金に充てるために、65億ユーロ(1兆円規模)の引当金を設定しているが、その大部分を支払わずに済むことになる。ロイターは、司法省のブリーフ提出を受けてバイエルの株価が欧州市場で約15%急騰し(35ユーロ付近まで上昇)、過去約2年間で最高値を記録したと報じた。JPモルガンのアナリストは、「法務総監の勧告はグリホサート訴訟を封じ込めるための重要なステップである」と評価し、最高裁が来年にも判断を下す可能性が高いとの見方を示している。Farm BureauやCropLife Americaなどの農業団体は、州ごとの異なる規制(パッチワーク)が解消され、全国統一の基準が維持されることは、農業資材の安定供給とコスト抑制に不可欠であると主張している。

一方、消費者団体や環境保護団体は、この動きを「企業の利益による政治と科学のハイジャック」と捉えている。Environmental Working Group (EWG)は、トランプ政権が「汚染者を保護し、毒性化学物質から身を守るための州や地方の権限を骨抜きにしようとしている」と非難。特に、地方自治体が学校周辺での農薬散布を禁止する条例まで無効化されるリスクを指摘している。Center for Biological Diversity (CBD)はIARCの発がん性認定を無視し、企業寄りのEPA評価のみを絶対視することは科学的知見の無視であると主張。ケネディ厚生長官への期待が裏切られたことへの失望感を表明している。

ロイターは、トランプ政権が「Make America Healthy Again」運動の支持者からの反発にも直面しなければならないと指摘している。MAHA支持層は農薬の健康リスクを声高に訴えてきたため、政権によるバイエル社支援は彼らにとって裏切りと映る可能性があり、今後の政治的火種となることが予想される。

7. 訴訟資金への壊滅的インパクト

訴訟ファイナンスとは、第三者の投資家(ヘッジファンド等)が原告側の訴訟費用を肩代わりし、勝訴金の一部をリターンとして受け取るビジネスモデルである。ラウンドアップ訴訟は、その規模と勝訴実績から、この業界にとって「ドル箱」であった。しかし、最高裁による「連邦法優越」の認定リスクが浮上したことで、以下の現象が発生している。①2025年12月時点で、主要なファンドは新規のラウンドアップ関連訴訟への資金提供を停止し、既存ポートフォリオの評価額を大幅に引き下げている。② 従来の訴訟投資は、個別の裁判の勝ち負けを分散させることでリスクヘッジが可能であった。しかし、最高裁の判決は「すべての訴訟を一括して無効化」する可能性を持っており、分散投資が効かないシステミック・リスクとなっている。

Fortress Investment Groupなどの大手プレイヤーは、すでに数十億ドル規模の資金を投入しているとされるが、トランプ政権と連携する共和党トム・ティリス上院議員などは、訴訟ファイナンスに対する課税強化や透明性確保を求める法案を推進しており、金融面からも原告団を兵糧攻めにする戦略をとっている。

8. 規制国家から企業保護国家への転換

2025年のグリホサートを巡る攻防は、単なる一企業の製造物責任問題を越え、米国の連邦制度と司法のあり方に関する重大な転換点を示している。

政治的意図の貫徹: トランプ政権は、大統領令と司法省の介入を通じて、「州による規制」を「経済成長の敵」と見なし、これを連邦権限で封じ込めるという、かつてないほど強力なトップダウン型の産業保護政策を推進している。

MAHAの敗北と変質: ケネディ厚生長官とMAHA運動は、政権内での生き残りをかけて農業化学産業との対決を回避し、その活動領域を「個人の健康管理」へと縮小せざるを得なくなった。ロイターも指摘するように、政権は産業界の保護と、健康被害を訴える支持層との間で深刻な矛盾を抱え込んでいる。

司法による最終解決: 司法省の強力な後押しを得たバイエル社が、最高裁で勝利する可能性は極めて高い。これにより、長年続いたグリホサート訴訟は終結に向かうだろうが、それは同時に、市民が司法を通じて企業の責任を追及する手段が、連邦法によって構造的に遮断される時代の幕開けを意味するかもしれない。

米国は今、消費者の「知る権利」と州の「警察権」が、連邦政府の「経済優先ドクトリン」によって上書きされる歴史的な瞬間に立ち会っているのである。

2025年の主要な出来事

時期 イベント 概要と影響
2025年4月 大統領令署名 トランプ大統領が「州の行き過ぎた権限行使」を制限する大統領令に署名。EPAに州規制への対抗を指示
2025年5月 MAHA報告書発表 ケネディ厚生長官主導の報告書。農薬規制への具体的言及なく、産業界への配慮が滲む内容に批判殺到
2025年7月 OBBBA成立 「One Big Beautiful Bill Act」成立。農業支援は拡充されたが、農薬免責の核心条項は除外された模様
2025年12月 司法省ブリーフ提出 サウアー法務総監が最高裁にバイエル社支援の法廷助言書を提出。訴訟終結への決定打となる可能性
2025年12月 バイエル社株価急騰 司法省の支援を受け、株価が約15%上昇。ロイター等は、これを市場が訴訟リスク解消を好感した結果と報道