公害と環境汚染:日本と欧米の取り扱いの差異
唐木 英明
東京大学名誉教授
「公害」の語源と社会的意義
「公害」という言葉は、「pollution(汚染)」や「nuisance(不法行為)」などの言葉では捉えきれない、近現代史に深く刻まれた社会・法的概念である。この概念は、高度経済成長期に起こった四大公害病、水俣病、新潟水俣病、イタイイタイ病、そして四日市ぜんそくという出来事の中で形成された。
その第一の特徴は、発生源が特定の産業活動に起因すること。第二に、人間の生命および健康に対する深刻な被害があること。第三に、加害者と被害者の関係が比較的明確であり、特定の地域に被害が集中することである。これにより、被害者は加害企業に対して直接的な責任追及を行うことが可能となり、激しい住民運動と司法闘争が展開された。そして「公害」は、産業、健康、地域社会、人権が複雑に絡み合った複合的な被害の総体として理解されている。
「公害」から「環境汚染」への転換
被害の続出と、それに対する国民世論の高まりを受け、1967年に公害対策基本法が制定された。その対象は、大気汚染、水質汚濁、土壌汚染、騒音、振動、地盤沈下、悪臭の典型7公害に限定され、あくまで既知の産業型公害への対処を主眼としていた。
その後、1980年代から1990年代にかけて、環境問題の様相は大きく変化した。オゾン層の破壊、地球温暖化、酸性雨、海洋プラスチック汚染、生物多様性の減少といった、より広範で地球規模の課題が顕在化したのである。これらの問題は、加害者も因果関係も複雑であるため、加害者責任の追及が困難であった。こうした背景から、従来の公害対策の理念を継承しつつ、地球環境問題にも対応できる法律として、1993年に環境基本法が制定され、公害対策基本法は廃止された。これにより、日本の環境政策は、特定の公害への事後的な対策から、より包括的で予防的な取り組みへと移行した。そして「環境汚染」は、環境への負荷全般を指す言葉として、「公害」と別の概念として位置づけられるようになった。
欧米や国際機関には、言語的にも概念的にも、「公害」に完全に一致する言葉は存在しない。それでは、「公害」に対する対応をどのようにして実現しているのか。
米国の「環境汚染」の定義
米国の環境保護を担当するのは、1970年に設立された環境保護庁(EPA)である。その設立は、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』に触発された環境運動の高まりや、深刻化する大気・水質汚染への国民の懸念に応える形で行われたものである。
EPAは「汚染」を大気、水、土壌へのあらゆる有害物質の混入を包括するものとして規定している。この包括的な概念は、日本の「環境汚染」に相当し、大気浄化法や水質浄化法といった連邦法の基礎となっている。このアプローチは、個別の被害救済よりも、国全体の環境の質を一定の科学的基準以上に維持することを目的とする、トップダウン型の規制体系である。
「パブリック・ニューサンス」という損害
「公害」のように、特定の発生源が地域社会に深刻な被害をもたらす事案への対策の一つが、コモンロー上の「パブリック・ニューサンス」という不法行為法理である。これは、特定の個人ではなく、「一般公衆に共通の権利」に対する「不合理な妨害」を引き起こす行為を対象とする。パブリック・ニューサンスは、連邦法のような包括的な規制とは異なり、州、地方自治体、あるいは市民団体が、特定の汚染源に対して損害賠償や差止命令を求めて訴訟を提起するための、ボトムアップ型の法的手段である。
パブリック・ニューサンスを理解する上で重要な、いくつかの象徴的な事件が存在する。その一つが、ニューヨーク州ナイアガラフォールズ市郊外で発生したラブキャナル事件(1978年)である。化学会社が1940~50年代にかけて大量の有害化学廃棄物を埋め立てた運河跡地が、後に住宅地や小学校として開発された。数十年後、腐食したドラム缶からダイオキシンやベンゼンを含む有害物質が漏出し、住民の間で流産や先天性異常の発生率の高さが報告されるなど、深刻な健康被害が表面化した。住民運動が活発化し、政府は国家非常事態を宣言、住民を強制移住させた。
これが契機となり、1980年に「包括的環境対策・補償・責任法」、通称「スーパーファンド法」が制定された。これは、浄化費用を、原因企業から徴収した税金や、特定された責任当事者からの費用回収によって賄うための信託基金を設立する法律である。
近年、パブリック・ニューサンス法理は、地球温暖化問題に適用された。カリフォルニア州やニューヨーク市は、大手石油企業を相手取り、化石燃料が気候変動を引き起こすことを認識していたにもかかわらず、そのリスクを隠蔽することで、気候変動という「パブリック・ニューサンス」を創出したとして、訴訟を提起している。これは、特定の煙突からの排出という伝統的なニューサンスの構図を超え、製品の生産・販売によって引き起こされる地球規模の損害との因果関係を問う試みである。
社会的公平性と「環境正義」
米国のユニークな概念が「環境正義」である。これは1960年代の公民権運動にその源流を持ち、人種的マイノリティ、低所得者層、先住民族といった社会的弱者が、有害廃棄物処理施設、工場、その他の環境負荷施設を不公平に押し付けられていると現実を告発するものだ。運動の出発点が、1982年にノースカロライナ州ウォーレン郡で起きた抗議活動である。州政府が、ポリ塩化ビフェニル(PCB)に汚染された土壌の埋立地として、アフリカ系アメリカ人が暮らす貧しい農村地域を選定したことに対して、抗議運動が始まった。そして、環境問題と人種差別が結びついた「環境レイシズム」として知られるようになった。
日本の「公害」の被害者は、主に特定の地理的共同体の一員として定義されるが、環境正義の被害者は、その人種や階級ゆえに、環境リスクを押し付けられる標的とされたという側面が強調される。この視点の違いは、問題の根本原因を、単一企業の過失や技術の欠陥だけでなく、社会の構造的な不平等や差別に見出すという、より深い社会批判へと繋がっている。
EUの「汚染者負担原則」
欧州連合(EU)の27の加盟国は多様な法文化を持つため、その環境法体系は、各国で統一的に適用可能な、明確かつ技術的な定義と手続きを重視する。その結果、EUは「公害」という社会的な言葉ではなく、「環境損害」という法的に厳密な概念を核に据え、産業活動に対する責任を体系的に規定している。
環境責任制度を貫く原理は、「汚染者負担原則」である。この原則は、1972年に経済協力開発機構(OECD)によって提唱され、EUでは1987年の単一欧州議定書によって条約に明記されて以来、EU環境法の礎となってきた。その核心的な考え方は、環境損害を引き起こした、あるいは引き起こす恐れのある事業者が、その損害の予防および修復にかかる費用を負担するというものである。
EUの環境政策は、この原則を具体的な法的義務に落とし込む形で構築されており、その最も重要な成果が環境責任指令(ELD)である。
環境責任指令(ELD)の「環境損害」の定義
2004年の環境責任指令(Directive 2004/35/EC, 以下ELD)は、責任追及の対象となる損害を、漠然とした「汚染」ではなく、法的に厳密に定義された「環境損害」に限定している。それは、EUの鳥類指令および生息地指令によって保護されている種や生息地への損害、EU水枠組み指令に定義される水域の状態への損害、人の健康に悪影響を与える土地汚染の3点である。これは、加盟国間で解釈の揺れが生じにくい、明確で統一された法的引き金を設けることを目的としたものである。
さらにELDは、指令の附属書IIIにリストアップされた特定の危険な活動を行うエネルギー産業、化学産業、廃棄物管理などを行う事業者に対しては、無過失責任を課している。それらの活動から生じた環境損害については、事業者はたとえ最善の注意を払っていたとしても、その予防・修復費用を負担する義務を負う。これは、日本の公害法制における無過失責任の導入と同様に、ハイリスク活動を行う者に対してより重い責任を課すという考え方に基づいている。
産業災害への対応
EUの環境政策は、域内で発生した深刻な産業災害への対応を通じて形成されてきた。そのひとつが、イタリア北部の町セベソにある化学工場で1976年に爆発事故が発生し、ダイオキシンを含む有毒な化学物質の雲が放出された事故である。広範囲の土壌が汚染され、家畜が大量死し、住民には皮膚疾患などの健康被害が発生した。事故の教訓から、1982年に最初のセベソ指令が採択された。この指令は、大量の危険物質を取り扱う施設に対し、重大事故を予防するための安全管理システムの導入、安全報告書の提出、そして緊急時対応計画の策定を義務付けるものである。
トリー・キャニオン号原油流出事故(1967年)は、EUの前身である欧州経済共同体(EEC)の環境政策が本格化する以前の事件だが、英国とフランスの沿岸に甚大な被害をもたらした。この事故の教訓から、1969年の「油による汚染損害についての民事責任に関する国際条約(CLC条約)」が採択され、タンカー所有者に無過失責任を課す国際的な枠組みが作られた。
予防原則の実践
EUの環境政策におけるもう一つの思想が、予防原則である。1992年のリオ宣言第15原則に明記されたこの原則は、「深刻または回復不可能な損害の恐れがある場合には、完全な科学的確実性の欠如が、環境悪化を防止するための費用対効果の大きな対策を延期する理由として使われてはならない」と定めている。
この原則は、科学的な因果関係が完全に証明されるのを待つのではなく、重大なリスクが合理的に予見される場合には、予防的な措置を講じることを正当化する。これは、規制の導入に際して、その便益が費用を上回ることを定量的に示すことを重視する米国の費用便益分析のアプローチとは対照的である。この原則は、EUの規制文化全体に浸透しており、特定の「公害」型損害への対応だけでなく、将来起こりうる未知のリスクに対しても、行政が積極的に介入することを可能にする法的・政治的基盤となっている。
国際機関の視点
国際機関は、その性質上、普遍的で科学的な言語体系を採用する。日本の「公害」という概念に直接相当するものは存在せず、それぞれの機関の任務に応じた、機能的で専門分化されたアプローチが取られている。
国際連合環境計画(UNEP)は、国連における環境問題への対応を調整する中心的な機関である。UNEPは、化学物質と廃棄物、大気汚染、海洋汚染(特にプラスチック)、土地劣化といった分野ごとに活動を展開し、それぞれの分野で科学的知見の集約や政策提言を行い、その枠組みの中で「公害」のような概念が用いられることはない。
経済協力開発機構(OECD)は、加盟国が効果的かつ経済的に効率的な環境政策を立案・実施できるよう、分析、データ収集、政策提言を行っている。その中心的なツールの一つが「環境汚染物質排出・移動登録」制度である。これは、産業施設がどのような化学物質を、どれだけ環境中に排出したか、あるいは廃棄物として移動させたかを国が把握し、そのデータを国民に公開する仕組みである。
世界保健機関(WHO)の視点は公衆衛生に特化している。WHOにとって、汚染はそれが人間の健康に及ぼす影響という観点からのみ定義され、評価される。
国際機関は、汚染を客観的で測定可能な基準に基づいて分類している。その過程で、「公害」という言葉に内包される、企業の不正、地域社会の苦しみ、そして市民の抵抗運動といった、社会的、政治的、歴史的な文脈は消去される。国際機関の役割は、個別具体的な事件の正義を裁定することではなく、科学的な共通理解を形成し、外交的な交渉の場を提供し、すべての国が参加可能な技術的な枠組みを構築することにあり、そのため、意図的に中立的かつ技術的であり、政治的に受け入れられやすいものでなければならないのだ。
市民運動の役割
環境損害に対する法的・政策的対応の進化は、政府や専門家だけで進められたものではない。むしろ、市民社会からの突き上げが決定的な役割を果たしてきた。日本では、水俣病患者やその支援者による運動が、「公害」の存在を社会に認めさせ、政府と企業を動かす原動力となった。米国では、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』が化学農薬の危険性を告発し、環境運動の幕開けを告げた。また環境正義運動は、環境問題に人種と階級という新たな視点をもたらした。欧州では、緑の党が政治勢力として台頭し、国際環境団体WWFや欧州環境ビューロー(EEB)が、EUの政策決定に大きな影響力を行使している。
有機フッ素化合物(PFAS)汚染への対応の差異
日本のPFASへの対応は、環境省を中心とする行政主導で、科学的知見の集積を重視しながら段階的に進められている。水道水や河川におけるPFOSとPFOAの合計値50ng/Lという暫定目標値は、法的拘束力を持つ基準ではなかったが、2025年になって「指針値」に改訂された。これは、科学的な因果関係や健康への影響について、国内外の動向を慎重に見極めようとする姿勢の表れである。規制は、国際的な枠組みであるストックホルム条約(POPs条約)で廃絶や制限の対象となったPFOS、PFOA、PFHxSを、化審法に基づき規制するという、国際的な動きに追随する形が中心である。また「PFOS、PFOAの摂取が主たる要因と見られる個人の健康被害が発生したという事例は確認されていない」という公式見解を発表している。これは、新たな「公害」問題化することを避けつつ、既存の「環境汚染」管理の枠組みの中で対処しようとするものと評価できる。
米国では、PFAS問題は、連邦政府による強力な規制と、司法を通じた責任追及によって対処されている。EPAは、2024年にPFOSとPFOAに対して、法的拘束力のある飲料水基準(MCLs)を設定し、これらの物質をスーパーファンド法上の有害物質に指定した。これは、汚染者、主に製造企業に浄化責任を負わせ、費用を回収する強力な権限を連邦政府に与えるものである。
その結果、地方自治体や個人が、PFAS製造企業を相手取り、数千件もの訴訟を提起している。その多くは、パブリック・ニューサンスの法理を援用して、PFASが広範な水質汚染を引き起こし、「公衆の健康や安全」という共通の権利を侵害したと主張し、さらに、企業がPFASの健康リスクを数十年前から認識しながら、その情報を隠蔽したと主張している。
EUのアプローチは、その根底に予防原則が色濃く反映され、個別の汚染現場への対応や、特定のPFAS物質の規制に留まらず、REACH規則(化学物質の登録、評価、認可及び制限に関する規則)の下で、PFASという1万種類以上の物質群全体を、原則として製造・使用・販売を禁止しようという、包括的な規制案を審議している。
これは、個々の物質の有害性が科学的に証明されるのを待つのではなく、PFASが持つ「極めて高い残留性」という共通の性質そのものをリスクと捉え、環境中に蓄積し続けることを防ぐために、予防的に市場から排除しようとするものである。この包括的な規制案に対しては、半導体や医療機器など、代替が困難な「必須用途」を持つ産業界から強い反発があり、特定の用途については適用除外を認めるかどうかが大きな焦点となっている。
おわりに
欧米や国際機関は、「公害」と「環境汚染」を区別する二元論を採用せず、その代わりに、広範な汚染というカテゴリーの他に、限定的な損害を訴訟や特定の指令の対象とする、機能的な区別が存在すると言える。
近年、国際社会では、日本の「公害」のような概念が議論されている。その一つが「エコサイド」、すなわち生態系への大規模な破壊行為を、国際犯罪として位置づけようとする動きである。EUが「エコサイドに匹敵する」環境損害を刑法上の犯罪とする指令を採択したことは、この流れを象徴している。また、国連人権理事会は「清潔で、健康的で、持続可能な環境への権利」を基本的人権として承認した。これにより、環境損害は単なる規制違反や不法行為ではなく、人権侵害として捉える視点が強化された。
これらの動きは、深刻な環境損害に対する普遍的な非難と責任追及の枠組みを構築する試みであり、国ごとの法文化の壁を越えて、共通の語彙を模索する努力と言える。しかし、環境損害を定義し、訴追し、規制する方法は、それぞれの社会が持つ法文化、政治構造、そして歴史的記憶と深く結びついている。このような違いは将来的にも存在し続けるであろう。