デュポン社のPFOA裁判 -C8科学委員会の巨大な遺産と日本への影響- その-1
唐木 英明
東京大学名誉教授
1. C8科学委員会:「関連の可能性」という法的合意
米ウェストバージニア州パーカーズバーグにあるデュポン社ワシントン工場から多量のパーフルオロオクタン酸(PFOA、デュポン社での呼び名はC8)が、1950年代から環境に排出されていた。それから半世紀後の1998年になって、近隣の牧場主が、牛の大量死が化学物質汚染によるものだとして、ロバート・ビロット弁護士に相談した。ビロット弁護士は工場周辺の住民の飲料水にPFOAが混入していたことを突き止めて、これが2001年の近隣住民の大規模集団訴訟につながった。
2004年にデュポン社は和解に応じたのだが、これは環境法および有害物質不法行為法の歴史において画期的なものだった。和解の中心には、一見すると逆説的な合意が存在した。なぜ、自社製品の安全性を主張してきたデュポン社と、健康被害を訴える8万人の住民が、科学的な因果関係の「完全な証明」ではなく、「関連の可能性」という、和解により設立されたC8科学委員会のあいまいな調査基準に同意したのか。この合意は、単純な妥協の産物ではなかった。有害物質不法行為訴訟において、原告側が因果関係の立証という極めて高いハードルを越えられずに膠着状態に陥るという、長年の課題を打ち破るために設計された、現実的な解決法だった。
1.1 不確実性の科学と確率の法理
1.1.1 疫学の挑戦:なぜ「因果関係の証明」は困難なのか
大規模な人間集団において、PFOAのような環境化学物質と特定の疾病との間に、科学的に厳密な因果関係を確立することは、以下の要因のため、極めて困難である。
・交絡因子:個人の健康は、喫煙、食事、運動などの生活習慣、遺伝的素因、あるいは他の環境有害物質など、無数の要因に影響される。そのため、ある疾病の原因をPFOAのみに特定することは非常に難しい。
・長い潜伏期間:がんなどの多くの疾病は、発症までに数十年を要することがある。この時間的な隔たりにより、過去の曝露と現在の症状を直接結びつけることは困難である。
・曝露の普遍性:PFOAは、先進工業国に住むほとんどの人々の血液中から検出される。従って、疫学研究の基礎となる、PFOAに全く曝露されていない「非曝露対照群」を見つけ出すことはほぼ不可能であり、比較分析を著しく困難にしている。
・横断研究の限界:PFOAに関する研究の多くは、ある時点での健康状態と曝露レベルを調べる横断研究である。これは関連を示唆することはできるが、曝露が疾病に先行することの証明が困難であり、因果関係を確定することができない。
・血中濃度の変動:PFOAの製造が2000年に中止されて以後、増加していた米国国民の血中濃度は低下に反転している。このことが血中濃度の増加と疾病発症の関係の解析を複雑にしている。
・動物実験からヒトへの外挿:動物実験では、PFOAがげっ歯類に腫瘍などを引き起こすことが示された。しかし、代謝や生物学的メカニズムの違いから、これらの結果をそのままヒトに適用できるのかは、常に議論がある。
1.1.2「関連の可能性」:科学的問いに対する法的基準
原告側弁護士であるロバート・ビロット氏らは、個々の住民がPFOAと自らの病気の「因果関係」を科学的に証明することが、時間的にも費用的にも不可能であることを認識し、このままでは勝訴はほぼ不可能と考えた。そこで考案した「全く新しいアプローチ」が、厳密な因果関係の証明ではなく、独立した科学委員会が「関連がある可能性の方が高い」かどうかを判断するという、より現実的な基準を設けることだった。「関連の可能性」とは、「入手可能な科学的証拠の重みに基づき、集団訴訟の原告団で、C8への曝露と特定の疾患との間に関連が存在する可能性の方が、存在しない可能性よりも高い」ことを意味する。この基準は、米国の民事訴訟における標準的な証明責任である「証拠の優越」を導入したもので、50%を超える確率を示すだけでよく、刑事訴訟における「合理的な疑いの余地なく」という厳格な基準よりはるかにハードルが低い。
強調すべきは、これが科学的な概念ではなく、あくまで法的な合意という点である。科学者が因果関係を宣言するには、より高い確実性と再現性のある複数の研究が求められるが、「関連の可能性」は、科学的な論争に終止符を打つためではなく、法的な目的のために明確なイエス・ノーの答えを出すためのものだった。このアプローチは、「PFOAはがんを引き起こすか?」という解決困難な科学的問いを、「がんを引き起こす可能性の方が高いと言えるか?」という、解決可能な法的問いに置き換えるという、画期的な転換であった。
1.1.3 C8科学委員会:独立した仲裁者
この法的な問いに答える役割を担ったのが、C8科学委員会であった。委員会は、原告側弁護団とデュポン社が共同で選出した、3名の疫学者で構成された。委員会の任務は、様々な疾病について「関連の可能性」が存在するか否かの判断を下すことであった。その判断材料として、C8に曝露したと考えられる約69,000人の住民の健康状態のアンケート調査、血液中のC8濃度の測定、そして医療記録の調査を行ったのが、C8健康プロジェクトである。
委員会はC8健康プロジェクトのデータ、デュポン社内の労働者調査、そして広範な科学文献を含む、科学的に関連するあらゆる証拠を検討した。評価基準には、PFOA血中濃度と疾患の関連の強さ、用量反応関係、結果の一貫性、動物実験に基づく生物学的妥当性などが含まれていた。
1.2 デュポンの計算:危機管理と勝訴戦略
1.2.1 存亡の危機を回避する
それでは、PFOA汚染とそのリスクを長年にわたり隠蔽してきたデュポン社が、なぜ自社に不利な判断が下される可能性のある方式に同意したのだろうか。デュポン社は、8万人の原告団から数十年にわたる訴訟を起こされる可能性に直面していた。賠償額は天文学的な額になる可能性があり、その額は予測不可能であった。後に公開された社内文書によれば、デュポン社は1980年代にはすでにPFOAの毒性と人体への蓄積性を認識していながら、排出を継続し、さらには増大させていた。この「悪意」が陪審裁判で明らかになれば、補償的損害賠償をはるかに超える巨額の懲罰的損害賠償が課される可能性があった。和解は、この制御不能な危機に対処する手段であった。
他方、この和解は、デュポン社にとって大きな賭けでもあった。和解契約は拘束力を持ち、もし科学委員会が特定の疾病について「関連性の可能性なし」と判断すれば、その疾病に関する請求権は永久に消滅し、申し立ては棄却される。これはデュポン社にとって、将来起こりうる何千もの訴訟の少なくとも一部を消滅させることができるというメリットを意味した。そして数十年にわたる広範なPFAS汚染により、多数の住民と工場従業員の体内にPFASが蓄積していたにもかかわらず、明確な症状が見られないという状況を考慮すれば、多くの疾病について、PFASとの関連が否定される可能性があるとみなされた。事実、デュポン社の期待通り、糖尿病、ほとんどのがん、先天性異常などの疾病について、委員会が関連性を否定した。
1.2.2 陪審員席から研究室へ
デュポン社の弁護団は、複雑な科学的データを一般市民の陪審員に提示することの計り知れないリスクを認識していた。陪審員は、疫学の専門的な証言とは無関係に、病に苦しむ住民の感情的な証言や、企業の隠蔽工作という説得力のある物語に心を動かされる可能性が大きい。科学委員会に同意することで、デュポン社は一般因果関係の判断の場を、予測不可能な陪審員から、3名の理性的な疫学者へと移したのだ。これは、感情や物語ではなく、科学に基づいて判断が下されることを狙った、計算された戦略であった。ただし、そこには「関連」ではなく「関連の可能性」でいいという法的基準が存在し、それは原告側に極めて有利になるというデメリットもあった。
1.2.3「責任ある企業」という宣伝
この和解には、デュポン社に対する悪評を回避するという目的もあった。すべての責任を否定し、抵抗を続ける悪辣な企業と見なされる代わりに、「科学に基づいた」「合理的な」アプローチで地域社会の懸念を解決しようとしている「公正な」 企業というイメージを示すことができたのだ。デュポン社が和解に際して発表した声明では、「和解は、科学に基づいた合理的なステップを取ると同時に、コミュニティに寄与することから、双方の当事者にとって利益があります」と述べている。これは、自社の行動を美化するための戦略的な動きであった。
結論として、デュポン社にとってこの和解は「罪を認める行為」ではなく、洗練された危機管理戦略であった。それは、陪審裁判における予測不可能で壊滅的な危機を、科学委員会の判断という定量的で管理可能なリスクと、交換する取引だった。
1.3 原告側の賭け:法廷戦略の成功
1.3.1 被告の資金で調査を行う:C8健康プロジェクト
科学的な証明よりもずっと緩やかな判定基準を提案したのは、住民側の弁護団であり、それは、有害物質不法行為訴訟で原告が直面する構造的な不利を克服するための、戦略的判断であったことはすでに述べた。原告側にとって、残された最大の障壁は、自らの主張を証明するために必要な大規模な疫学研究にかかる莫大な費用である。この和解は、その問題を独創的な方法で解決した。
和解契約には、デュポン社から原告側へ7000万ドルの支払いが含まれており、原告側弁護団はこの全額をC8健康プロジェクトの資金とした。このプロジェクトは独立企業により運営され、6万9000人の住民から健康調査票と血液サンプルを収集し、協力費を支払った。これにより、世界でも類を見ない大規模な集団のデータが構築され、科学委員会に提供された。原告側は、デュポン社自身に不利な証拠となるデータの収集費用を、デュポン社に支払わせたのである。
1.3.2 地域住民の健康への直接的な道:健康診断の保証
この和解は、地域社会全体に大きな利益をもたらした。契約では、科学委員会が何らかの疾病との間に「関連の可能性」を認めた場合、デュポン社はその疾病について、「原告団全員を対象とした健康診断費用を永久に負担する」ことが義務付けられた。これは、訴訟の末に得られる金銭的賠償とは別に、地域社会の健康と福祉にとって具体的な勝利であった。
1.3.3 裁判所の扉を開く:因果関係の二分化
和解は、原告側の証明責任を半減させた。「一般的因果関係」、すなわちPFOAが特定の疾病を引き起こしうるという証明は、科学委員会による「関連の可能性」の認定で完了するのだ。最も重要なことは、デュポン社が、関連が認められた6つの疾病のいずれについても、訴訟において、一般因果関係を争わないことに契約上同意した点である。これにより、原告は最大の障壁である、PFOAが病気を引き起こしうるのかについては、法廷で争う必要がなくなった。彼らの証明責任は、「個別的因果関係」、すなわちPFOAが自分の病気を引き起こした可能性が高いことを証明することだけになった。この仕組みにより、その後、多くの個人訴訟が起こったのである。
原告側弁護団は、和解を利用して、(1)被告に研究資金を拠出させ、(2)地域社会全体の即時的な健康上の利益を確保し、(3)個人賠償への主要な法的障壁である「一般的因果関係」の証明を不要にすることで、勝利へと転換させたのだ。
1.4 その後の展開:「関連の可能性」がもたらしたもの
C8科学委員会は、2011年から2012年にかけて一連の報告書を発表し、7年間にわたる調査の最終的な結論を下した。「関連の可能性」が認定されたのは、妊娠高血圧症候群(子癇前症を含む)、腎臓がん、精巣がん、甲状腺疾患、潰瘍性大腸炎、高コレステロール血症であり、認定されなかったのは、2型糖尿病、その他のがん(肝臓、膵臓、乳房など)、肝疾患(非がん性)、変形性関節症、脳卒中だった。
「関連の可能性」が認められた6つの疾病のいずれかに罹患した3500人以上の住民が、デュポン社に対して訴訟を提起した。デュポン社は一般的因果関係を争うことができなかったため、最初のいくつかの訴訟で数百万ドル単位の評決で敗訴した。その結果、2017年にデュポン社は、残りの3500件以上の訴訟を総額6億7100万ドルで包括的に和解することに合意した。「関連の可能性」という枠組みは、単純な科学的妥協ではなく、理由は異なるものの双方にとって利益となる、法的革新であった。ビロット弁護士はこの顛末を単行本として出版し、映画化もされた。
※「その-2」に続く