IMechEに学ぶ 未来のエンジニア教育
室中 善博
室中技術士事務所 代表
はじめに
日本技術士会では、英国機械技術者協会(IMechE)と定期的にセミナーを開催している。IMechEのある化学工学系エンジニアが語った言葉が印象的であった。「いま私たちは、過去には想定できなかったような事象や問題に直面している。前例のない問題にどう対処するか、その手本もなく、若いエンジニアにどう教えるべきか苦慮している」。
これは技術の限界ではなく、教育と社会の課題である。本稿では、この言葉を出発点に、英国やアメリカで進む技術者教育の変化、特にSTEMからSTEAMへの転換、日本の教養教育の後退とその影響、そしてこれから求められる技術者像について考えてみた。
1.技術者が直面する“前例のない時代”
かつての技術者は、「与えられた仕様を実現する存在」だった。だが現代は違う。気候変動、エネルギー危機、地政学的リスク、AIの倫理、ESG、ジェンダー、災害と復興―こうした多次元の社会課題において、技術者は「社会の中でどう応えるか」を問われている。技術だけでは解けない問題が日常となっているのだ。
問題は単に「技術の高度化」ではない。科学技術の社会的影響や倫理性、文化的受容性までを視野に入れ、複雑で多様な価値観の中で最適解を探す力が求められている。つまり、エンジニアに必要なのは「問題解決力」よりも、「問いを立てる力」である。しかもその問いは、科学的合理性だけでなく、社会の多様な価値観と調和させる力を伴わなければならない。
2.英国・アメリカで進むSTEAM教育の胎動
このような背景の中で、英国やアメリカではSTEM(科学・技術・工学・数学)教育に「A=Arts」を加えたSTEAM教育が広がりを見せている。ここでいうArtsは、一般的な美術や音楽に加えて、創造的思考やデザイン、さらには教育機関によっては哲学・倫理・社会理解といった人文的素養までを含める場合もある。もっとも、これらすべてを包括的に教育カリキュラムに組み込むには、現場レベルでの課題も多く、理念先行の傾向も否定できない。
アメリカの一部州では、高校や大学で「エンジニアリング×倫理」「デザイン思考」「持続可能性と社会正義」などの学際科目が導入され、NASAやMITでは、創造性と技術を融合する探究型プロジェクトが日常化している。
Appleの創業者スティーブ・ジョブズは、生前、日本の禅や伝統工芸から深いインスピレーションを受け、京都に邸宅を構えたことでも知られている。彼が重視した「直観」や「美意識」は、まさにSTEAMにおける“Arts”の核心であり、感性と技術の融合を象徴している。
英国でも、IMechEやRoyal Academy of Engineeringが提唱するエシカル・エンジニアリングや「社会の中の技術者」という考え方が広がっており、現代の技術者にとって、人間理解や価値観の共有こそが根源的能力とされつつある。こうした動きは、単なる教育内容の転換にとどまらず、「技術とは何か」「科学者とは誰のために働くのか」という根本的な哲学的問いを含んでいる。
3.日本ではなぜ教養教育が後退したのか
一方、日本では戦後、大学に「教養課程」が制度として存在していた。多くの国公立大学では入学後2年間を教養課程として、理工系学生も哲学、文学、社会学、倫理などの人文・社会科学を学んでいた。
しかし1990年代以降、文部科学省の教育改革方針により「即戦力化」「専門教育の早期化」が求められ、教養課程は次第に解体された。法人化による大学経営の効率化、企業側の「実務的スキル重視」への対応、グローバル人材像の誤解なども影響した。その背景には、短期的な成果を求める評価制度、就職市場への過剰な適応、国際競争力の名のもとに進んだ“実学重視”の風潮があった。
その結果、現在では「教養」と名のつく課程は形骸化し、多くの学生は専門に直行するようになった。倫理や哲学に触れずに技術を学ぶ技術者が増え、文理横断の思考力が弱体化している現状がある。しかもこの流れは、一度制度として教養を失った世代が教員になり、次の世代にも“実学偏重”が引き継がれてしまうという、負のスパイラルを生んでいる。
4.その“つけ”は社会にどう現れているか
こうした教養教育の後退は、社会のさまざまな場面に影を落としている。たとえば以下のような傾向が顕著である:
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- 環境技術導入において、地域住民との合意形成ができない(技術の正しさだけでは通用しない)
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- AI・監視社会・ジェンダーなど倫理的課題に対する判断が拙く、炎上や制度不備を生む
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- グローバル課題(難民、気候、紛争)に対する構造的理解が不足し、対応が短絡的になる
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- 若手技術者が「自分のしている仕事の意味がわからない」と感じて離職する
つまり、「専門知と教養知の断絶」が、現代社会の“複雑さに耐えられない構造”をつくってしまっているのである。社会が求めるのは単なる技術者ではなく、社会的文脈を読み取り、相手と対話しながら共に解を模索できる「公共知を持つプロフェッショナル」なのだ。
5.これからの技術者教育に必要なもの
では、前例のない社会課題に向き合う技術者をどう育てればよいのか? その答えは、単なるカリキュラムの変更ではなく、教育思想そのものの再設計にある。
以下のような教育が求められている:
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- STEAM教育の体系化:技術と倫理、科学と文化、美と機能を融合させたカリキュラム設計。たとえば、設計工学の授業においてユーザー心理学や文化人類学の視点を取り入れる。
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- 探究・対話型学習:唯一の正解を教えるのではなく、多様な意見と価値を対話的に探る力を育てる。哲学対話、政策提言型授業、学生主導のプロジェクト型演習など。
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- 実地的な問題解決学習(PBL):現場の課題にチームで向き合い、教室外で学ぶ機会を制度化。地方自治体や企業と連携した実践的課題の導入。
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- 教員自身のアップデート:理工系教員も人文・倫理に触れ、学際的教育者としての視点を持つ。文系との共授、教育FD(Faculty Development)の制度的強化など。
とくに大切なのは、「問いを立てる力」「意味を考える力」を若い段階から育てることである。それは、IMechEのエンジニアが感じたような“不確実性の中でどう動くか”という根本的な問いへの準備となる。単なる知識やスキルではなく、“自己と世界の関係を見つめる視点”を持つことが、これからの技術者の根幹をなす。
おわりに
技術者にとって最も重要なのは、「正しく作る力」ではなく、「なぜそれを作るのかを問える力」かもしれない。前例のない時代に、前例のある教え方では間に合わない。だからこそ、日本でもSTEAM的な教養の再評価が必要である。
「技術者教育の再構築」とは、単に専門知を増やすことではない。社会と技術、人間と設計、倫理と革新をつなぐ新しい知のかたちを育むことにほかならないのである。私たちが未来に託すべきは、単なるスペシャリストではなく、「未知に対して誠実に問いを立てることができる汎用知の担い手」である。
出典
- 1)
- MIT, “MIT Full STEAM Ahead”, MIT News, “Q&A: A STEAM framework that prepares learners for evolving careers and technologies”, November 2024
- 2)
- Kogei Art Kyoto, “Steve Jobs and Kyoto: A Pair of Mysterious Bonds”, August 2023
- 3)
- IMechE, “Engineering the UK’s Future, A summary of IMechE’s response to the UK Government’s Modern Industrial Strategy Green Paper”, Jan 2025
- 4)
- Yig Zhao, “Systematic Analysis of Research Trends in STEAM/STEM Education Based on Big Data”, December 2022
- 5)
- Kimberley Pressick-Kilborn et al., “STEM and STEAM Education in Australian K–1 Schooling”, Jun 2021
- 6)
- Australian Curriculum, “National STEM School Education Strategy 2016–2026”