党派的科学は科学と社会を害する
科学機関は特定の党派の応援団になってはいけない。政治や政策へのより適切な関わり方があるはずだ。
印刷用ページ監訳 キヤノングローバル戦略研究所研究主幹 杉山大志 訳 木村史子
本稿はロジャー・ピールキー・ジュニア
Partisan Science is Bad for Science and Society There are better ways for science organizations to engage policy and politics beyond partisan cheerleading を許可を得て邦訳したものである。
私たちは皆、科学を否定する人たちを知っている。その行動パターンはおなじみだ。ある研究が発表され、それによって、自分たちの行動が主張に反していることが示されたとする。だが、その研究内容を知っても、彼らは科学を否定する。のみならず、さらに同じ問題行動を強めるようになる。否定者たちとは困ったものだ!
否定者たちとはもちろん、ここでは『サイエンス』や『ネイチャー』誌の編集者のことを指している。
ネイチャー誌が2020年の大統領選でジョー・バイデンを支持したことで、一般市民がどのような影響を受けたかを調査した興味深い論文が発表された。それによると、バイデン氏への支持は増えなかった。のみならず、ネイチャー誌への信頼が失われたばかりか、政治的な分断の増加要因になるという、ネイチャー誌が期待したものとは正反対の結果になった。
同論文の考察では次のように述べられている:
ネイチャー誌や他の科学雑誌が、組織として選挙で支持表明をすることは、社会的信用を損なうものとなる。この現象は特に無党派候補者の支持層について顕著になる。そして科学界全体に対する信頼に悪影響を与える。重大な公衆衛生に関する情報収集行動にも悪影響を与える。組織が支持した候補の支持層に対するプラスの効果はほとんど無い。それは反対陣営の支持層へのマイナスの効果を相殺するには程遠い。その結果、国民の信頼度は全体的に低下し、党派に沿った二極化が進む。
では、自分たちの行動が過っていると聞いたとき、ネイチャー誌の編集者たちはどうしたのだろうか。行動を改めると述べたのだろうか?あるいは、自分たちの行動を変えることを考えようと立ち止まったのか?
いやいや、そうではない。
その代わりに、ネイチャー誌は党派的な支持への傾倒を倍増させた。のみならず、彼らの行動が分極化を促進するという証拠を否定した。サイエンス誌の編集長であるホールデン・ソープは、さらにその上を行き、自身の見解として、そもそも科学を必要としない存在として「一般市民」を嘲笑し、彼らが一流の科学雑誌を信頼していなくても、別に気にすることはないだろう?― とツイートしたのだ。
だがこの不適切なコメントにはいくつか批判があったに違いない。その数日後には、サイエンス誌は党派的な支持はしないことを約束し、少し態度を改めた。
政策や政治における科学の役割については、ここThe Honest Brokerでも(そしてこのサイトの名前の由来となった書籍の中でも)、よく議論されている。科学者や科学機関が政策や政治に関わるには、党派的応援団のような存在になるのではなく、重要かつ建設的な他のやり方がたくさんあるのだ。尚、The Honest Brokerの由来についてはこのリンクを参照して欲しい。
間違いなく、科学者の党派性と政治的主張は、健全な民主主義に不可欠である。しかし、その事実は、学術誌や大学のような科学的機関が、公共関与の有力な選択肢として党派的政治に期待を寄せるべきであることを意味しているわけではない。実際、上で引用した研究が示すように、党派的な応援団になることは事態を悪化させ、民主主義の実践を損なう可能性があるのだ。
私は学生や他の人たちに、こうした問題に飛び込む前に、自分が選んだ政治的関与の方法が物事を良くしたり悪くしたりする可能性があることをよく理解しておくよう勧めている。もし、その違いが分からなかったり、あるいは単に思い込んだり推測したりしているレベルなのであれば、少しペースを落として、政策や政治における科学の複雑さを理解するために時間をかけるべきだと思っている。
今日、コロラド大学ボルダー校の同僚で共同研究者であるマット・バージェスと私は、これらの問題を論じた記事「党派的な科学は科学と社会にとって有害である」をThe Heterodox Academyで発表した。
その冒頭はこうだ:
過去10年間、大学、公的資金提供機関、主要学術誌を含む科学機関は、政治的主張(アドボカシー)に積極的に関与するようになり、通常は左寄りの立候補者やその活動趣旨を代弁するようになった。このタイミングは、「大覚醒(Great Awokening)」とも呼ばれる2010年代半ばのエリートたちの言論の左傾化とほぼ一致している(いくつかの例については下図を、それ以外についてはこちらのリンクとこちらのリンクを参照されたい)。
例えば、『サイエンス』や『ネイチャー』では、争点となる問題について政治的立場をとる論説を掲載することが一般的になっている(例えば、こちらのリンクやこちらのリンク)。また、Nature誌は編集ガイドラインを導入し、研究結果に対する拒否権を政治団体(アドボカシーグループ)に与えることに明確に門戸を開いている。また米国の大学では、教員の採用、助成金の提案、昇進、人事考課において、多様性、公平性、包括性(DEI)についての記載や 基準を求めるケースが増えており、それらはしばしば進歩的政治についてのリトマス試験紙のように評価される。一方で政治的な動機によるデ・プラットフォーミング(公の場での発言機会を奪うなどの行為)や解雇(その多くは左派によるもの)が増加している(そしてこれらは、最近スタンフォード大学で見られたように、管理者によって支持されることもある)。自分の意見を言うことを恐れたり、言論のために脅かされたり罰せられたりした教授は多く、しかも穏健派と保守派に偏っている。保守的な教授の割合は少なく、かつ減少している。これらの例は、巨大な氷山の一角に過ぎない。
科学機関がよりはっきりとした党派性を持つようになることを求める人々は、通常、次の2つの主張のうちのどちらかを行っている。1) 科学者は社会から信頼され、尊敬される立場にある。その信頼性を活かして、私たちが共有する(進歩的な)政治的見解や好ましい政策を推進すべきである(例えば、こちらのリンクとこちらのリンクを参照のこと)。2) 科学者は完全な客観性を持っているわけではなく、科学は常に政治の影響を受けてきたものである。したがって、重要な政治的立場や政策を推進する形で科学を政治的に利用することを念頭に置くべきである(例えば、こちらのリンクとこちらのリンクを参照のこと)。だがどちらの主張にも欠陥がある。
この記事の全文はこのリンクから参照されたい。
党派的な政治にとって、科学を利用することの魅力は明らかだ。特に、ソーシャルメディアやケーブルニュースによって偏った党派的傾向が拡大した現代ではなおさらだ。
私たち専門家、特に一般市民から支持される仕事をしている者は、私たちが仕事をするための資源と社会的地位を提供してくれる人々のために働いていることを常に忘れてはならない。そしてその中には、自分たちの政治的な理解者であり仲間である人々もいれば、嫌悪感を抱くような、あるいはさらにひどい政治を行う人々も含まれている。
党派的な政治的主張が意味を持つ場所はたくさんある。 しかし、科学雑誌、大学当局、研究所といった場所は、そのような場所ではない。もし、科学界が持続的で広範な社会的信頼を確保することを望むのであれば。