欧州ガスパイプラインの歴史的背景(その2)
三好 範英
ジャーナリスト
過去3回、この欄で述べたように、ロシアからヨーロッパに天然ガスを供給する海底パイプライン「ノルトストリーム2」(以下NS2)建設問題は、アメリカ・ドイツ間の外交、安全保障上の懸案になっているが、最近新たな動きがあった。
NS2を建設運営する株式会社「ノルトストリーム2」と、その社長ら社員5人に対する制裁を断念するとの米バイデン政権の決定である。5月20日付けのドイツ公共放送ARD電子版によると、ガスパイプの敷設工事を行っている4隻の船舶と関連するロシアの4機関への制裁は継続するが、米国からの関係改善を求めるサインと解釈される。今後、米独間で妥協点を模索する動きが強まることになるという。NS2のホームページに掲載されているお知らせ(6月10日付け)によると、「NS2は敷設パイプの1本(NS2は2本のパイプからなる)の海底部分が技術的に完成した」。米国もすでに完成間近のNS2の稼働を最終的には認めることになるのではないか。ただ、ドイツでは建設反対を唱えている「緑の党」が、9月に行われる下院選挙の結果、政権与党になることが有力視されている。緑の党がどのような態度決定をするのか、今後の注目点である。
さて、専門書Thane Gustafson, The Bridge: Natural Gas in a Redivided Europe, Harvard University Press, 2020に沿って、天然ガスパイプラインをめぐる欧州-ロシア関係史をたどる続きである。
前回、1968年9月にオーストリアに向けたロシアの天然ガス供給が、チェコスロバキア経由のパイプラインで始まり、冷戦の東西分断を越えて天然ガス事業が結びついたところまで歴史を辿った。この供給を決めたヘルンシュタイン城での交渉には、西ドイツの鉄鋼業も加わっており、当初からソ連が西独をプロジェクトに引き込む意図があったことが伺われる。ただ、最初にロシアが天然ガス供給の契約を結んだのは東ドイツだった。同じ東側ブロックの国々として当然のこととも言えるし、発達した資本主義社会だったドイツでの「共産主義建設の成功」をアピールする必要性もまだ感じられていた。
しかし、フルシチョフ(Nikita Khrushchev)時代(1953~1964年)に続くブレジネフ(Leonid Brezhnev)時代(1964~1982年)では、次第に東独をはじめとする東側ブロック諸国への配慮が薄れていった。当時の東独を始め東欧諸国はソ連の傀儡国家だったが、ソ連が何でも思い通りにできたわけではなかった。多大な援助の要求をしてくるやっかいな相手という側面もあった。
こうした背景もあって、1960年代後半になると、ソ連にとって、ガス管、ポンプ、資金、市場を提供してくれる西独との関係の方が次第に重要になっていった。社会主義国どうしの連帯はいわば建前の世界で、西側世界の高い品質、技術、ハードカレンシー(国際的に交換可能な通貨)こそ、のどから手が出るほど欲しい物だったろう。ソ連は1968年から、ポーランド、東独の石油パイプラインに平行してガスパイプラインを敷設し、西側にガスを輸出する試みを始めた。しかし、東独の激しい反発や東独とポーランドの対立でうまくいかなかった。ソ連はチェコスロバキアを経由するルートに変更する。
折しも西独では1966年に社会民主党(SPD)のブラント(Willy Brandt)が外相となり、1969年には首相になった。ブラント政権は、共産圏諸国との関係緊密化を図る「東方外交」を進め、その際、双方に利益になる象徴的なモノが天然ガスだった。1970年2月1日にソ連-西独の最初の天然ガス輸出契約が調印された。1968年のソ連-オーストリアの契約が「小窓」であったとすれば、この契約は「ブレークスルー」だった。西独政府はガスパイプや機材の価格の85%相当の融資を行い、その半分に政府の信用保証を付けた。西独政府にとってこの契約は経済的と言うよりもむしろ、東西冷戦構造を内側から変容させる大きな政治的意味を持っていた。
チェコスロバキアを経由したパイプラインは、1972年から建設が開始され、1973年5月には最初のガスが東西ドイツに供給された。ソ連の真の狙いは西独への輸出だったことは言うまでもない。西ベルリンへの天然ガス供給は、チェコスロバキアから東独領内を通過してパイプラインを敷いたが、西ベルリン市内に入るところで「ベルリンの壁」が障害となった。東独体制に忠実な労働者が長さ20メートルにわたり壁を一時撤去し完成させた。1985年から供給を開始し、西ベルリンのガス消費量の9割を占めるようになる。
このように冷戦期のガス供給を巡るソ連と西独の間には、表向きのイデオロギー対立とは裏腹に、相互の思惑に基づいた依存関係が成立していた。ソ連当局者は西独のパイプ、設備、資金がなければこの事業が成り立たないことをよく認識していた。従って、ソ連は天然ガスを政治的な目的を達成するための戦略物資として使うことはしなかった。Gustafsonは天然ガスをめぐる東西関係が、その後、「鉄のカーテンの裂け目」が拡大していくための一つの背景となったと述べている。
1989年の東欧革命から1991年12月のソ連解体までの一連の冷戦崩壊の過程を経て、ロシアはそれまでの計画経済から市場経済への急激な転換を迫られた。しかし大きな混沌の中にあって、1990年代、ガス事業はソ連時代からのあり方が継続した。石油産業は解体され、共産党の元エリート(ノーメンクラトゥーラ)、新興財閥、あるいはマフィアといった人々によって買い取られたが、天然ガス生産・販売の独占企業「ガスプロム」は解体されなかった。
その理由は、第1に天然ガス産業は供給のための運搬がパイプラインによる他はなく、鉄道や電力網と同じように独占的な経営形態になる性格があること。第2にガスプロム社長を務めたチェルノムイルジン(Viktor Chernomyrdin、後にロシア首相)の存在があった。チェルノムイルジンはソ連のガス工業相を務め、ソ連末期に国営企業として「ガスプロム」を創設した。エリツィン(Boris Yel’tsin)大統領が進めた急進的な経済改革で、同社を解体する動きもあったが、チェルノムイルジンは頑強に抵抗した。
結局、経済担当副首相として急進的経済改革を主導したガイダル(Egor Gaidar)はガス産業の改革を断念した。1990年代、ガスプロムは長期契約に基づいた欧州の主要企業へのガス供給を継続し、設備の更新などはほとんど行われなかったものの、なんとか生き延びることに成功した。
一方、欧州には公的部門の市場化、つまり小さな政府が望ましいとする新自由主義(ネオリベラリズム)の波が押し寄せていた。1970年代、西欧諸国、特に英国はオイルショック、低成長、高失業率、インフレーションなど惨めな経済状態を味わい、それはケインジアン的福祉国家社会の限界と受け取られた。英国は1980年代~90年代、新自由主義に経済再生を賭けることになる。サッチャー(Margaret Thatcher)首相が依拠したこの改革思想は、主に英国出身の欧州共同体(EC)官僚によってECにも持ち込まれ、ドロール(Jacques Delors)欧州委員会委員長の下で、単一市場の形成、独占禁止などの政策が進められた。
天然ガスや電気などエネルギー分野においても、英国をモデルに競争原理を導入する動きが強まった。しかし、ドイツのガス産業はこうした動きに抵抗する。ドイツにはガス輸入業者が5社、ガス製造業者が6社、地域のガス供給を行う会社が約700社あり、それぞれの会社は地域を越えて競争することはなく、この3層構造は極めて安定していた。ガス産業全体が既得権の保持に動いたのである。ロシア側というと、欧州統合に関して懐疑的で、EUの面倒な官僚主義を避け、2国間、特に欧州で最大の経済力があるドイツとの直接取引維持を望む考えが強かった。ドイツ側は「ガスの自由化は実現しない」とロシア側を言い含めてもいた。このようにガス産業は、ロシア側も欧州側も1990年代は、それまでのやり方を変えることなく関係が継続した。
2000年代になって変化が訪れる。2000年にプーチン(Vladimir Putin)がロシア大統領になり、ガスプロムの社長ヴァヒレフ(Rem Vyakhirev)を解任し、彼とチェルノムイルジンの親族が私物化していたガスプロムの資産を取り戻した。旧体制を一掃しガスプロムを事実上政府の支配下に置くことが狙いだった。プーチンはガスプロムとロシア最大の国営石油企業ロスネフチとの合併を図り(最終的には失敗)、新ガス田の開発、液化天然ガス(LNG)事業への取り組み、独立系ガス企業の育成、欧州で進むエネルギー自由化や台頭するシェールガスへの対応を進めた。
欧州では、1998年に欧州委員会が最初の「EUガス・エネルギー指令」を出し、通信などに比して10~15年遅れだったが、ガス事業の自由化が始まった。当初ガスプロムは反発し、ドイツのガス産業も自由化を阻止していたことに力を得て、指令を無視する姿勢を取った。しかし、EUは第2、第3の指令を出し自由化への流れは不可避となった。ガスプロム内でも、輸出に携わる部門では自由化に対応しなければならないと考える社内勢力も生まれ、英国のスポット市場に参入する試みも始まった。
ただ、従来のやり方を維持しようとする社内勢力もまた根強かった。それが最もよく現れたのが、LNGを巡る対応で、新興の独立系天然ガス生産・販売会社ノヴァテクが、プーチンが力を入れるLNGをアジアに輸出するプロジェクトで中心的役割を果たした。それに対して、ガスプロムは欧州向けのパイプラインによる供給が中心であり、中国への供給も旧来のパイプラインによるやり方に固執した。
Gustafsonは、今後ガスプロムが生き延びていくのは容易ではないだろう、と指摘している。つまり、自由化に伴い欧州の天然ガス消費者は、多くの選択肢を持つことになるし、ガスの値段はますます世界市場の需給関係で決まる。ガス産業は、冷戦時代から続いてきた当事者間の長期的な人間関係から、市場を介した匿名的な関係を基礎にした形態に変化するだろう、という。
天然ガス事業を巡る欧州―ロシア関係のテーマでは、次回で、ガス供給を巡るロシアとウクライナの対立をたどり、最後にロシア-ドイツのこの問題を巡る関係を総括したい。