日本文明とエネルギー(13)
物質エネルギー循環都市、江戸
竹村 公太郎
認定NPO法人 日本水フォーラム 代表理事
21世紀、その地球を駆け巡る食糧が、世界人類の存続を脅かしていく。その食糧で、特に問題になるのがリン鉱石の枯渇である。
そのリン鉱石の枯渇を救う鍵が、日本文明の江戸時代に生まれていた。
広重が描いた新宿
(図-1)は広重の描いた当時の新宿通りである。この突拍子もない構図の絵は、江戸の人々を驚かせた。
この絵の構図は、どう見てもおかしい。単に馬の尻を見ているだけでなく、異常に低い目線からの構図である。人馬の行き交う激しい新宿通りで、しゃがみこんで馬の尻を見ている。大の大人が人通りの多い通りで、馬の後ろに座り込み馬の尻を眺めるだろうか。
どうやらこれは大人の目線ではない。子供が座り込んでいる視線だ。では馬の後ろでしゃがんでいる子供は何をしているのか。その子供はある物を狙っている。その狙っている物も、この絵に描かれている。馬がポトポト落としていく馬糞である。
馬糞は麦わらと混ぜると良い肥料となった。乾燥させると燃料エネルギーにもなった。馬糞拾いは子供たちの小遣い稼ぎであったようだ。馬が糞をすると、それが温かいうちに子供たちが拾っていく。馬の糞だけではない、江戸の町では、屎尿と食物残残渣はゴミではなかった。金銭に換えられる有用物であった。
江戸は循環都市だったと言われている。その象徴が、人々の屎尿を肥料とする「下肥」であった。江戸では川に投げ捨てる物などなかった。これが循環都市・江戸の秘密であった。
広重は、この江戸の秘密をこの絵で表現していた。
江戸の循環文明
当時、100万以上の人が住む江戸は、世界最大の都市であった。しかし、疫病が蔓延していたヨーロッパの都市と比べ、江戸は衛生的な都市であった。
江戸にはヨーロッパ式の下水道はなかった。それでも江戸が衛生的であった理由は、ゴミが発生しない徹底した物質循環社会が構築されていたからだ。
江戸の人々の屎尿は農家に引き取られていた。単に引き取られたのではない。農家は野菜やコメと交換して、下肥を引き取っていた。化学肥料がない時代に、チッソ、リン、カリを含む屎尿は農作に欠かせない肥料であった。
江戸周辺において、下肥は常に不足気味で貴重品であった。下肥運送業はもちろん、下肥問屋や小売商まで存在していた。長屋に住む店子の下肥の所有権は大家に所属していた。大家は店子の下肥を売って利益を得ていた。
各家からの生活排水もわずかで、道や路地のゴミは燃料になった。江戸に下水道がなかったにも関わらず、どの川もきれいで、江戸湾には適度な栄養分が供給され、プランクトン豊かな漁場となっていた。
世界の歴史上多くの文明が登場したが、物質、エネルギー循環の文明が日本で初めて生まれていた。
人口膨張と下水道の登場
1853年、黒船が来航し、激動の時代を経て江戸は東京となった。封建幕藩体制が崩壊し中央集権の国民国家となると、日本の人口は一気に流動化した。全国各地から人々が東京へ流入してきた。
明治近代化が緒についた明治17年、東京の神田で下水道事業が着手された。この下水道事業は、単にヨーロッパを模倣して開始されたのではなかった。
下水道を建設せざるをえないところまで、東京は追い込まれていた。
それは疫病のまん延であった。コレラ、ペスト、赤痢などによって、何万人もの命が奪われていった。特にコレラは猛威をふるい、明治12年に11万人、明治15年に3万人、明治19年に11万人、明治23年に4万人、明治28年に4万人という死者数が記録されている(「清潔の近代」小野芳朗・著、講談社選書)。
その疫病まん延の原因は、はっきりしていた。それは日本とくに東京が不潔な都市に陥ったからであった。その不潔になった原因は、人口の急増による物質循環都市の崩壊であった。
都市周辺の田畑の崩壊
明治になり、東京の周辺部の田畑は次々とつぶされ、市街地は東京の外周へ増殖していった。止まるところを知らない人口膨張と乱開発が始まった。関東平野は広大であり、その広大さが東京圏の異常な膨張を許してしまった。現在から見ると江戸の町は想像以上に小さく、山手線より2回り大きい程度であった。
それが明治、大正、昭和で一気に膨張していく。今では関東一円が市街地となってしまった。(図-2)が東京首都圏の膨張の図である。(図-3)は、東京都の都市化を表したものである。過去100年間の東京都の田畑と宅地の変遷である。100年前の明治34年、東京の宅地1万ヘクタールの周辺には、6万ヘクタールの田畑が取り囲んでいた。東京の人々が排泄する屎尿の受け皿として充分な農地が控えていた。
これが江戸の物質循環都市を成立させていた秘密であった。都心の周辺の農地が、江戸の衛生を守り、江戸市民の穀物や野菜を支え、江戸湾は清潔に保たれ魚介類の宝庫となっていた。
都市化が進み、田畑は潰され、宅地が増殖していった。昭和30年代、遂に宅地面積は田畑面積を越え、現在の宅地と田畑の関係は100年前と正反対になってしまった。
この(図-3)は、物質循環都市・江戸が成立していた秘密と、その循環都市が崩壊していくプロセスを鮮やかに表現している。
現在、東京都の下水道普及率は100%近くになり、かつての貴重な屎尿は、下水道で流され、下水処理場で処理されオイルで燃やされている。
江戸の循環都市は消えてなくなってしまった。
リン鉱石の枯渇
21世紀の未来、世界は食糧危機に直面していく。近代のエンジンの原油はじりじりと上昇し、化学肥料の原料のリン鉱石が逼迫していく。リン鉱石は鳥の糞の化石であり、一度採取したらもう地球内部から出現して来ない。
(図-4)のCEEP(ヨーロッパ化学工業会)の報告では、1990年代をピークにリン鉱石は減少し続け、21世紀中にはその姿を消していくという。
事実、リン鉱石を日本に輸出していた米国は、1997年にリン鉱石の輸出を止めた。2008年4月、大地震が中国の四川省を襲った以降、中国政府はリン鉱石に高い関税をかけ、実質上の輸出規制に入った。
今世紀中には、原油価格の高騰とリン鉱石の枯渇で化学肥料は消え、世界の穀物逼迫はかつて経験したことのない厳しい局面を迎えていく。
リン鉱石が枯渇する未来、日本の食糧自給のため、下肥の復権が必死必須となっていく。
都市と農村の連携
リン鉱石が枯渇して未来どうしたらよいのか。
答えはある。人々の屎尿に含まれるリン、カリを再利用すればよい。都市の人々の屎尿は、有機肥料として農地に提供され、生産された穀物や野菜は都市の人々に提供されていく。江戸時代、都市と農地が支えあった物質循環社会の再構築である。
現在は、江戸時代のように人々の屎尿を一軒一軒回って集め、街中を運搬する必要はない。今ある下水道システムを、有機肥料の運搬と製造工場へ変身させればよい。
下水道処理場の汚泥は決して廃棄物ではない。オイルをかけて燃やすシステムは変更されなければならない。汚泥の肥料化技術はすでに開発されている。循環物質社会の構築に向って歩んでいく社会的な合意さえあれば可能である。
多くの世界各地の人々は、人間の排泄物は疫病を運ぶ悪魔と忌み嫌っている。しかし、日本人はつい最近の昭和の時代まで、屎尿を肥料としていた。
日本人は、排泄物が肥料になることを今でも記憶している。この日本人のメモリーと技術が、世界規模の食糧危機を救っていくことになる。