戦略としての反省(2):自粛と職業文化
越智 小枝
相馬中央病院 非常勤医師/東京慈恵会医科大学臨床検査医学講座 講師
前稿では、効率のよい情報共有システム、SNSの副作用として生じた炎上という社会現象とその矢面に立ちやすい「加害者」的職業が存在すること、加害者への誹謗が容易に激化する今の社会では、炎上をシステムエラーとして対処する必要があるのでは、ということを述べました。
ただし、これは、=(イコール)個人が謝罪しない、責任を負わない、という意味ではありません。むしろ原子力に少しでも関わる多くの人が自分事として受け止め、目に見える形の反省を示すマナーを組織や業界全体として確立すること。それにより、その組織・業界の一員が不用意な言動により炎上を引き起こし、徒に傷がつくことがないようにする必要があるのではないか、ということです。
3.11後のコミュニケーション
「なぜ今までと同じことを言っているのに炎上するのか」
「なぜ8年以上が経ってもなお同じことで責められるのか」
「なぜ関係のない自分まで一緒に批判されるのか」
「なぜ自分の専門外のことにまで文句を言われるのか」
福島原子力発電所事故の後のコミュニケーションについて、原子力に関わる方々からこのようなフラストレーションをお聞きすることがあります。これらの「なぜ」の根本には、3.11後の以下のような状況変化があるようです。
- 1.
- これまでには必要なかった、顔の見える被害者への配慮が必要となったこと
- 2.
- SNSなどの世界で「責任を求められる」人々の範囲が広がり、本来直接の責任のない方の言動も炎上しやすくなったこと
- 3.
- 技術的な「安全」だけでなく地域住民の暮らしや健康も含む「安心」まで求められるようになったことで、専門外の責任を問われているように感じることが多くなったこと
医療事故と原発事故
一見関係のない人々が幅広く社会責任を問われる。自分の専門とは直接関係のない分野まで責任の範囲として追及される…。3.11の後、原子力に関わる人々が直面しているこのような場面は、実は医療関係者には比較的なじみの深いものです。医療ミスや医療事故の責任範囲は、時に患者さんの生活全般にまで及ぶからです。
医療業界では、サリドマイド事件や薬害エイズなどの社会問題だけでなく、個人や病院レベルでの医療ミス・医療事故など、決して明るくはない歴史を通じ、加害者としての職業文化が培われてきました。そういう医療者の目から見れば、2011年の原発事故により突然加害者と呼ばれるようになってしまった方々の置かれた状況は、医療事故の後とよく似ています。
医療事故や医療過誤は個人の悪意や怠慢で起こるわけではありません。多くの医療事故は組織のシステムエラーとして生じますし、怠慢なスタッフよりも患者さんや現場に深くコミットしている人の方がニアミスの現場に遭遇するリスクが高くなる、と言っても過言ではないでしょう。意識の高いスタッフの間で起こるだけに、事故の当事者の方が負う心の傷は本当に深いものです。
しかし、そういう善良な方々の反省が必ずしも世間に伝わるわけではありません。
反省を伝える技術
むしろ正直である方ほど
「自分の心のうちを隠してはいけない」
と思うあまり、むしろ非難を受けてしまうことがあります。たとえばニアミスをした別のスタッフを庇おうとして
「人であれば当然そういうこともありますよね」
という「正直な」発言をした結果、患者さんの気分を却って害してしまう。そんな場面は日常診療でもしばしば目にします。また、前稿で述べたように、人を傷つけた、というショックのあまり反応ができなくなり、むしろ反省していないかのように受け取られてしまう方もいます。
注意しなくてはいけないことは、このような正直な言動の結果、一番傷つくのは被害者の方々だ、ということです。
「こんなに苦しんでいるのに相手が反省すらしてくれない」
そう感じることにより、被害者の方はさらに傷を負ってしまうからです。つまり、たとえ演技であっても医療者が目に見える形の反省を示すことは、医療者と患者の両者を守る為に必要な技術なのです。
「演技とは何事だ、形ばかりの反省に何の意味がある」
と憤慨される方もいるかもしれません。しかし、医療者が内心でどんなことを考えていようと、それが患者さんを直接傷つけることはありません。つまり本当に患者さんのことを考えるのであれば、外面を整えることもまた、良い心を持つことと同じくらい優先させられるべきことだ、と私は考えています。
その「自粛」はいつまで
それでは原子力産業界の方々がこの反省の技術を持っていないのでしょうか。もちろんそうではないと思います。問題は、その技術を、多くの方が「事故後の特別な対応」と認識してしまっていることではないでしょうか。
「我々はいつまで自粛しなくてはいけないんだろう」
原子力の関係者の方から時折そう聞かれることがあります。そこには、事故の前まではできていた原子力についての前向きな話題を、容易には口にできなくなってしまった、という強い抑圧感も窺われます。
「そろそろ原発事故のことばかりでなく、前向きな話をしたい」
熱意のある方がそう思ってしまう気持ちは誰にも止められないでしょう。しかし、では、公の場や、SNSに流され得るような場でその発言がなされてよいか、と言えば、やはりこれまで福島の方々と関わってきた者として、「否」と答えざるを得ません。反対に、今「自粛」と呼ばれている多くの態度は、新たな職業文化として定着させる必要があるのではないか、と思っています。それは決して福島への思い入れからくる感情論ではありません。むしろそのようなマナーこそが、業界の方々を無意味な炎上から守る戦略だと思うからです。
医療者としての演技
たとえば医療事故から何年もたった後に、医療者が患者さんの前で
「あんな事故はめったに起きないのに、なぜいつまでも患者に気を遣わなければならないのか」
「あんな稀な医療事故が一回起きただけで不安を覚える患者は感情的すぎるのではないか」
と言うことは、世間からどう受け止められるでしょうか。
あるいは、ある医療事故が起きた時、同じ病院で事故に関係していないスタッフや、別の病院で同じような手技を行っている医療スタッフが
「自分は同じ病院にいても全然関係ない」
「あの事故は一つの病院の怠慢なのに、なんで自分たちまで責められなくてはいけないのか」
などと患者さんに聞こえるところで話すことは、いかがでしょうか。
もちろん医療者も人ですから、その心の容量には限界があります。何か大きな事が起きた時に、自己弁護・自分の組織の弁護をしたくなることは当然の反応です。しかし医療者が患者さんの前で発する言葉は、「内心そう思ってしまうこと」「内輪でそういう愚痴をこぼすこと」とは全く別物です。
「患者さんに聞こえる場所ではそういう話はしないように」
そのマナーは、決して医療者に表面上のごまかしを教唆するものではなく、患者さんを傷つけないための医療者のマナーであり戦略である、と言えるのではないでしょうか。
覆水は盆に返らない
もちろん事故が起こる前であれば、医療者が患者さんを安心させるために、少しオーバーに不安を否定してみせることもあります。また、リスクにおびえすぎる状況を多少面白おかしく表現することもあり得るでしょう。しかし一旦医療事故がおきてしまった後に全く同じ発言を繰り返せば、
「稀な事故だから許されると思っているのか」
「患者の不安を馬鹿にする気か」
「事故のことを真剣に考える気がないのか」
という誹りは免れ得ません。そしてそれは、事故から年月が経ったから消えるものではないのです。たとえば事故から10年が経った後、
「そろそろ医療事故を忘れて前向きな話をしても良いのではないか」
という発言をすれば、
「そろそろ、で済まされる問題か」
「時間が経ったらほとぼりが冷めるとでも思っているのか」
「本当に反省する気があるのか」
と言われてしまうのではないでしょうか。なぜならどんなに時間が経っても、事故はなかったことにはならず、被害は元に戻ることはないからです。
被害に遭った患者さんと家族の気持ちを慮ること。それは、医療者として一生貫くべき職業文化であり、「そろそろ…」といって打ち切るような期限付きの「自粛」ではありません。それは、原子力においても同じことなのではないでしょうか。
新しい職業文化を
あくまで医療という立場からの意見にはなりますが、福島への「自粛」は、関係者の抑圧感の解消や原子力に関わる業界のイメージアップ戦略のために解かれるべきではない、と私は思います。もちろん、被災者への配慮を犠牲にして得られるメリットがデメリットを上回るのであれば、戦略的に前向きな発言はなされてよいかもしれません。しかし、その前向きな発言と被災者への配慮が本当に両立し得ないのか、という議論は十全になされるべきだと思います。
今福島の現場は、ようやく表面上の落ち着きを取り戻し始めている。そんな大切な時期だからこそ、ふと「正直な本音」を語ってしまった方が「炎上」に巻き込まれる、といった不毛な出来事を繰り返さない戦略が必要だと思います。個人がこれ以上無用な攻撃を受けないよう、そして炎上により福島に住む方々が癒えかけた傷を再びえぐられることのないよう、業界全体が反省という技術をもって人々を守る。それが加害者としての職業倫理であり、3.11後のエネルギー業界に必要な戦略なのではないでしょうか。それが、事故という現実が常に身近にある、医療現場からの愚考です。