日本文明とエネルギー(3)
なぜ、桓武天皇は奈良から脱出したのか?
竹村 公太郎
認定NPO法人 日本水フォーラム 代表理事
奈良盆地で誕生した日本文明
奈良盆地は安全、舟運、飲み水、エネルギーがそろった恵みの地であった。
奈良盆地の湿地湖周辺で、飛鳥京、694年には藤原京、そして710年には平城京が次々と建設されていった。日本文明はこの奈良盆地で誕生していった。
しかし、「鳴くよウグイス、平安京」の西暦794年、都は京都へ移った。正確には、西暦784年、桓武天皇は奈良盆地から出て長岡京に遷都し、その10年後の794年に長岡京から京都の平安京に再び遷都した。
桓武天皇による奈良盆地からの遷都は徹底していた。朝廷や貴族たちはもちろん官人、工人そして一般庶民の総てが移動し、宮廷の建材、瓦、内装品、装飾品は解体され持ち運びだされた。
この徹底した遷都をみていると、まるで奈良から脱出して行くようだった。
なぜ、恵まれた地形と気象の奈良盆地から出ていったのか?いったい何が桓武天皇を奈良盆地からの脱出に駆り立てたのか?
インフラからの視点
桓武天皇が平城京から遷都した理由は、歴史家のあいだでも諸説ある。
一つは天智天皇系だった桓武天皇は、天武天皇系の奈良から離れたかったから。一つは藤原一族など在来貴族の影響から離れたかったから。一つは道鏡など仏教の影響力を弱めたかったなどである。
歴史の専門家たちは人文系なので、どうしても社会・経済・政治・宗教からの視点となる。社会の上部構造の人文社会の分野は多岐多様で、歴史解釈はそれこそ専門家の数だけあり、論議は果てしなく続いていく。
インフラの専門家の私は、歴史の解釈を地形と社会の下部構造からアプローチしていく。文明の下部構造からの視点は、上部構造のような大きな視線の幅はない。下部構造から見ると思いのほか簡単に歴史の謎が解けていく。
飛鳥京、藤原京そして平城京と日本文明を誕生させた恵みの奈良盆地は、インフラからみると悲惨な呪いの地に変貌していたのだ。
伐採された山々、枯渇したエネルギー
200年以上、奈良盆地で3つの都が誕生し、宮殿と寺院と人々の住居が建築された。
寺院のための巨木が周囲の山々から次々と切り出された。人々は山へ入り燃料や建材用に立木を伐採していった。立木を伐採し尽くすと山を焼き払い、畑として開墾していった。これは奈良だけではない、世界中の人類が文明を作っていく共通のプロセスであった。
故・岸俊男氏(奈良県立橿原考古学研究所長)の推定では、平城京の内外には10万人から15万人の人々が住んでいたとされている。奈良時代、建材、舟、工具そして燃料として年間1人当たり10本の立木が必要だった仮定する。そうすると、年間100万~150万本の立木が必要だったこととなる。
モンスーン気候の日本の植生は生育が良い。しかし、それにも限度がある。年間100万本以上の立木伐採は、日本の森林の再生能力をはるかに超えていた。それが長期間に続けられたのではたまらない。
奈良盆地を囲む山々は禿山となってしまった。(図-1)は米国の歴史学者、コンラッド・タットマン氏による日本の歴史的森林伐採の変遷である。彼は全国の寺社仏閣に入り、縁起書類を調べ上げた。その縁起には寺社の創建、改築時の木材搬入先が記されていた。その研究成果がこの図となった。
これを見ると、奈良時代後半には、紀伊半島や琵琶湖北岸まで森林伐採が行われていた。こらは、奈良盆地の周囲の森林は消滅し、禿山になっていた証拠である。
森林エネルギーを求めて淀川流域へ
禿山に囲まれた奈良盆地は厄介で危険な土地となった。
強い雨が降ると土壌は流出し、山の斜面は次々と崩壊していった。山の保水力は失われ、湧いていた清水は枯れ、清浄な飲み水が消えていった。
さらに、流出した土砂は次第に湿地湖を埋めていった。もともと水はけの悪い奈良盆地はますます水はけが悪くなり、雨のたびに都や田畑は浸水を繰り返した。人々の生活排水や排泄物も盆地内で澱み、盆地は不衛生となり疫病が慢性化していった。
もちろん、土砂が埋まった湿地湖での舟の便は低下していった。
安全で、清潔な清水が湧き、資源に恵まれ、舟の便が良かった奈良盆地。200年以上たった奈良盆地は、資源が枯渇し、水害が多発し、疫病が蔓延し、交通の便が悪い悲惨な土地となってしまった。
桓武天皇が、悲惨な奈良から脱出したのは必然であった。
奈良盆地のある大和川流域は小さかった。その大和川流域の隣には8倍も大きな淀川が流れていた。(図―2)が日本全国を流域で区切った地図である。淀川流域は大和川流域より遥かに大きいことが分かる。
この淀川流域には、奈良盆地で枯渇した森林がまだ豊富にあった。上流部には巨大な琵琶湖があり、水は枯れることがなかった。桓武天皇がこの淀川水系の長岡京そして京都へ遷都したのは当然であった。