政策論争の見方
前田 章
東京大学 大学院総合文化研究科 教授
2015年12月のパリ協定により、これまでの京都議定書とは大きく異なる枠組みが採択された。これを機に、しばらく停滞していた環境政策論争が国内外で再び活発になってきたように思われる。ここ数年の論点の一つは「カーボンプライシング」であろうか。これはカーボンに価格を付けて削減につなげるという考え方であるが、学術的にはマーケット・ベースド・インストルメンツ(MBIs)という考え方とほぼ同義であろう。言葉としては新しいもののように見えるが、実際の政策論争としても、京都議定書の脈絡でさんざん議論されたキャップ・アンド・トレードの是非と大差ないように思える。
一つの施策の賛否を巡って論争が起こることは、民主的な政策形成という点では大事なことであろう。一方で、決着が着かないまま、同じことを何度も何度も繰り返すなら、それは不毛というべきだろう。どのような論争が健全であり、どのような論争がそうでないというべきか。以下で少し考えてみたい。
経済学の理論にしばしば見られる考え方の一つに、等価定理(equivalence theorem)というものがある。これは、ある特定の前提と条件のもとで、二つの事柄は等価であるといった結論を導くものである。これは言い方を変れば、この二つの事柄の差異は帰結に影響を与えないということにもなる。こういう言い方をした場合は、中立性命題(neutrality proposition)とも言う。経済理論家はこうした定理を提示し証明することにしばしば心血を注ぐ。
最も重要な例は中央集権計画経済と分権的市場経済の対比であろうか。この二つは、きちんと機能していれば、どちらも同じ結果を導くとされる。厚生経済学の第一定理、第二定理であり、議論のルーツはもちろんアダム・スミスの「神の見えざる手」である。
財務の理論をご存知の方は、「MM(モディリアーニ=ミラー)定理」というのを聞いたことがあるだろう。完全市場のもとで、企業の資本構成は企業価値に影響を与えないというものである。資金調達を債券でしようが、株式でしようが同じなのである。同じことが財政学の分野でも言えて、公債でも増税でも国民の消費行動に与える影響は同じであるとされる。これは「リカードの等価定理」と言われる。
こうした等価定理はその結論自体重要である。しかし、その読み解きのポイントは実はそこではない。「ある特定の前提と条件のもとで」といった部分こそがポイントなのである。これは言外に、その前提が崩れると、あるいは条件が変わると、等価とはならないことを示唆している。だからこそ、理論構築ではこの前提と条件の同定がもっとも重要かつ難しい局面となる。
MBIの学術的議論では、まず、特定の条件のもとで排出権制度と環境税は等価であることが示される。そこで議論のポイントとすべきは、第1に、どのような前提条件かという点であり、次に、前提や条件を変えると結論がどう変わるかという点である(より詳しい議論は紙面の制約もあるのでまたの機会に譲ることにしたい)。
政策論争が健全なものとみなされるには、こうした等価定理の考え方が踏襲されたものとなっている必要があるのではないだろうか。A策とB策があり、どちらがよいか。この論争の進め方は、まずこの違いを左右する本質的な要因の同定に議論を絞り、その上でその要因の変化はA策とB策の優越をどう決定付けるかを検討する。本質的な要因となるものは必ずしもエビデンスに裏打ちされるとは限らず、究極的にはイデオロギーの違いに帰着されることもある。この部分は政治的な決着以外にないということにもなる。
そうは言っても、こうした健全な政策論争の実例はあまり多くないのが現実である。しかしだからこそ、議論の健全性を強く意識して努力することが重要なのではないかと考える。