続・気候変動を動かす金融・投資の動き
── TCFDの提言案を読む
竹内 純子
国際環境経済研究所理事・主席研究員
3.TCFD提言案への懸念
気候変動関連の情報開示を求める動きの素地は、2000年代初頭から投資判断基準にESGの視点を加えるべきとの考えが強まったことにあるだろう。その後、気候変動問題への関心が高まるにつれディスクロージャーを求める動きが加速し、あわせてリーマンショックの経験によって「金融業界が把握できていないリスク」が突如顕在化することに対する強い懸念が共有された。いまやG20のうち15か国では気候関連ディスクロージャーを求める規則あるいは指針が存在し、業界団体やNGOが定める枠組みのほか、上場企業に対して気候関連情報の開示を求める証券取引所も増えている。TCFDのフェーズⅠ報告書にそうした規制や枠組みの一覧表が掲載されているが、例えば米国証券取引委員会(SEC)は企業に対して有価証券報告書に気候変動によるリスクへの言及を促すことを含めたガイダンス注4)を公表、CDP(Carbon Disclosure Project)やGRI(Global Reporting Initiative)などの自主的枠組みも含めれば、金融市場から情報開示を求める動きは加速度的に高まっているといえる。
こうした動きの中でTCFDが設置されたわけだが、その提言の内容にはいくつかの大きな懸念がある。
(1)リスクトレードオフへの考慮がないこと
まず指摘しておくべきは、世界が直面している課題は気候変動だけではないという当たり前の事実であろう。TCFDの提言では、2℃シナリオからの乖離は許されざるリスクをもたらすと考えているようだ。しかし、一つのリスクを低減させることだけを考えていると別のリスクが上昇してしまうというのはよくある話であり、国連が掲げるミレニアム開発目標やその後継である2030アジェンダでも、環境問題は貧困の撲滅や初等教育の普及などの課題の中の一つに過ぎない。その環境問題も、衛生的な水の確保や大気汚染など多様な課題がある。
例えば、気候変動関連のリスク評価によって金融市場がエネルギーインフラへの投資を減退させれば、結果して世界経済を減速させるというリスクを生じる可能性はないのか。詳しい検証が必要ではあるが、2015年に原油価格の低下が世界経済のデフレ圧力を高めた可能性があることなども振り返る必要があるだろう。また、化石燃料が座礁資産化するというのであれば、中東諸国の政情が一気に不安定化するリスクも考えなければならない。2℃シナリオからの乖離以外にも世界にリスクをもたらす課題は多く存在するのであり、2℃シナリオからの逸脱を全く認めないような政策措置が短い期間で導入されることは、可能性としては認識すべきであるものの、それを大前提とすることは現実的ではないだろう。
昨年2月に上海で開催されたG20財務大臣・中央銀行総裁会議において出された「Green Finance and Climate Finance」注5)では、「急激かつ訴求効果的な政策変更のない、安定的で透明性のある、一貫した政策の確保が必要」あるいは「多くの低排出型社会に向けた施策が相互に矛盾または不整合であり、一貫した政策が必要」として、一貫した政策の必要性を強く訴えているのである。
政策や規制の突如の変化の発生確率を過小評価すべきではないが、発生確率を全く考慮することなく、そのまま金融リスクとみなすことは論理の飛躍ではないか。
(2)科学の不確実性への考慮が十分でないこと
気候変動対策の議論を難しくしている理由の一つは、「気候感度」(産業革命以降の温室効果ガス濃度が倍増した場合に何度温度が上昇するか)が確定できないことにある。IPCC第5次報告書ではこれを1.5~4.5℃の幅があるとしか述べておらず、コンセンサスは取れなかった。産業革命前からの温度上昇を2℃未満に抑制するとしても、その時期、気候感度の考え方によって、シナリオには大きな幅が生じる。こうした不確実性を強く残す気候変動関連の科学の描く長期的シナリオと企業の事業活動や戦略といった情報は、時間軸も不確実性に対する考え方も大きく異なる。2℃シナリオに整合的な情報開示を求めるというのはいささか無理があるのではないか。
(3)情報開示と資源配分の関連性についての理解が短絡的であること
TCFDのレポートは、情報開示が適時適切に行われれば、資源配分が低炭素型の投資に向かうことを前提としているように読める。しかし投資判断はあくまでビジネスであり、リスクの高いところにハイリターンを求めるマネーが流れ込むこともあるだろう。投融資の検討にESG情報が活用される傾向は確かに高まっているが、最終的な判断は収益性等を総合的に勘案したものなると思われる。例えば日本の高効率石炭火力技術の移転がこうした背景によって停滞した場合、効率に劣る中国の技術が流れ込みかえって2℃シナリオとの乖離が埋まらないこともあり得るように、情報が適時適切に開示されれば資源配分が一定の方向にむくというものではないだろう。
(4)国際条約に対する過信があること
世界には様々な国際条約があるが、そうした条約が掲げた長期目標が短期的に実現し金融リスクとして現実化するということは、可能性としてはあり得るだろうが、具体的な例はほとんどないといえるだろう。例えばWTOが成立したからといって突如、貿易障壁のない完全な自由貿易の世界になり、比較優位のない産業が座礁化するわけでもない。国際条約が置く長期目標からの乖離が金融リスクに直結するわけではないだろう。
4.TCFDの今後
TCFDの報告書では、繰り返しvoluntaryという言葉が使われ、情報開示はあくまで各企業の任意であることが強調されている。しかし、TCFDフェーズⅠ報告書のAppendex5「PUBLIC CONSULTATION QUESTIONS」では、パリ協定の下、5年ごとに行われるグローバルストックテイクにおいて、資金の流れが2℃シナリオに整合的であるかを確認することを前提に、そこに適切なインプットをし得る情報開示の検討をうかがわせる言及もなされている。パリ協定第2条(目的)によって、グローバルストックテイクに提出すべき情報として義務化される可能性も否定できないと考えたほうが良いだろう。
また、CDPが2016年7月に出した「A Changing Context for Disclosure from Date to De-risking」注6)というレポートにおいて「TCFDは規制的なエンゲージメントの前触れ」と述べられているなど、他の情報開示枠組みからTCFDの提言を義務化していくことへの期待もある。 しかし冒頭述べた通り、TCFDの設置はG20財務大臣・中央銀行総裁会合からFSBになされた要請に基づくものであり、最終的には本年7月ドイツで開催されるG20にTCFDの提言が報告されることとなっている。これをどう使うかはG20の判断に委ねられるということだ。 議長国であるドイツはこうした気候変動関連の情報開示を積極的に進める姿勢をみせているが、米国トランプ政権がどういう意向を示すかは全く未知数である。
金融市場の選択や志向の変化によって世界が緩やかに変化していくことは望ましい。気候変動関連のリスクを正しく評価し、企業行動に織り込むべきことにも異論の余地はない。しかし、そのリスクだけをあまりに過大視すれば、その仕組みは現実社会の変化を促すものにはならず、「一部のグリーンな人たちの主張」に終わってしまうだろう。TCFDの報告書の使われ方を含めて、適時適切な情報開示について関心を持ち議論を続ける必要があるだろう。
- 注4)
- SEC “Commission Guidance Regarding Disclosure Related to Climate Change”
https://www.sec.gov/rules/interp/2010/33-9106.pdf
- 1)
- 環境管理8月号掲載「気候変動を動かす金融・投資の動き」
(国際環境経済研究所ホームページに転載、http://ieei.or.jp/2016/08/takeuchi160812/) - 2)
- 国際環境経済研究所、手塚宏之「気候関連財務ディスクロージャー」の課題(1)、(2)、
http://ieei.or.jp/2016/06/opinion160627/、http://ieei.or.jp/2016/06/opinion160629/ - 3)
- TCFDウェブサイト、https://www.fsb-tcfd.org/publications/
- 4)
- なお、本稿執筆にあたっては日本から唯一のTCFDメンバーとして参加する東京海上ホールディングス経営企画部部長兼CSR室長の長村政明氏、パリ協定のあり方を研究されている電力中央研究所社会経済研究所上野貴弘主任研究員に多くの示唆を頂いた。上野貴弘「COP21パリ協定の概要と分析・評価」
http://criepi.denken.or.jp/jp/kenkikaku/report/detail/Y15017.html