私的京都議定書始末記(その28)

-コペンハーゲン前夜-


国際環境経済研究所主席研究員、東京大学公共政策大学院特任教授

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AWG-LCAをめぐる状況

 私はAWG-KPの首席交渉官であったため、どうしてもAWG-KPに関する記述が多くなってしまったが、国連気候変動交渉における日本の主たる関心事はAWG-LCAにあった。バリのCOP13で設立が決まったAWG-LCAは全ての主要排出国が参加する公平で実効ある枠組みを交渉する場として大きな期待を集めていた。そして2009年12月にコペンハーゲンで開催されるCOP15ではAWG-LCAの作業が終了し、2013年以降の新たな枠組みが出来上がるはずであった。事実、COP15に向けたデンマークの意気込みはすさまじかった。もともと環境マインドの強い北欧諸国ということもあり、デンマークは開催地の本来の順番であれば中南米で行われるはずであったCOP15を強引にコペンハーゲンに招致し、しかも通常は環境大臣の会合であるCOPに100数十カ国の首脳を招くという。それもこれも2009年のCOP15でバリ行動計画のマンデートが完了し、新たな枠組みができることが想定されていたからだ。2009年の各種交渉会合や気候変動関連の国際会議には必ずといってよいほど、デンマークのコニー・ヘデゴーエネルギー気候変動大臣が登場し、「コペンハーゲンの成功はあなた方にかかっている。しっかり仕事しなさい」と交渉官を叱咤激励する大演説をぶつのが常であった。ヘデゴー大臣を初めて間近に見たのはCOP14(ポズナン)で当時の齋藤鉄夫環境大臣とのバイ会談に同席した際である。初対面の挨拶もそこそこに、体を前に乗り出して齋藤大臣に野心的な削減目標の策定を迫る等、何事にも強面に対応する印象を持ったのを鮮明に覚えている。

檄をとばずヘデゴー大臣

 しかしながら、ヘデゴー大臣の気迫とは裏腹にAWG-LCAにおける交渉は混迷の度を深めていた。バリ行動計画は先進国と途上国の同床異夢の上に合意されたものであるということは既に述べたとおりだが、そのパーセプションの違いが具体的な交渉を通じて当然のごとく顕在化したのである。AWG-LCAではバリ行動計画の構成に呼応して①共有のビジョン、②先進国の緩和、③途上国の緩和、④適応、⑤資金、⑥技術移転の6つの交渉グループが立っていたが、いずれも「日暮れて道遠し」の状況にあった。

 先進国、途上国の緩和においては、先進国が地球規模の課題に対応するためには先進国、途上国が責任を共有すべきであると主張したのに対し、途上国は先進国の緩和は法的義務、途上国の緩和は自主的行動という二分論を強く主張した。これは途上国が義務を負わないことを理由に京都議定書を離脱した米国にとってレッドラインである。しかも「自主的緩和行動は、先進国からの資金援助や技術協力があることが条件」ということである。また先進国の緩和のセッションでは途上国側が「先進国の歴史的責任」を踏まえ、先進国全体で90年比25-40%削減(あるいはそれ以上)すべきというAWG-KPのコピーのような主張を展開していた。バリ行動計画で導入されたMRV(計測・報告・検証)についても、先進国には京都議定書と同様の厳密なMRVを求める一方、途上国については非常に甘いMRVを認めるべきという主張である。「そもそも途上国の緩和について議論する前にその前提となる資金、技術移転の議論を進めるべき」というのも途上国の毎度の議論であった。当然のことながら、先進国側は途上国の「食い逃げ」を認めることはできず、途上国の緩和と途上国支援(適応、資金、技術移転)の議論とは「ニワトリとタマゴ」のような堂々巡り様相を呈していた。

 適応、資金、技術移転では途上国側が次々に要求事項を並べた。途上国支援を法的義務にすべき、途上国支援の内容をMRV(計測・報告・検証)すべき、先進国からの資金援助は追加性のあるものでなければならず、しかも公的資金を中心とすべき、先進国のエネルギー環境技術に関する知的財産権を放棄すべき等々、数え上げればきりがない。当然のことではあるが、途上国にとってバリ行動計画の存在意義はここにあったからである。

 特にひどかったのが「共有のビジョン」の議論である。もともとは「2050年までに地球全体で温室効果ガス排出を半減する」というビジョンを先進国、途上国で共有しようというのが、少なくとも先進国側の思いであった。しかし共有のビジョンの議論を始めてみると、途上国側が先進国の歴史的責任、大幅な削減義務、適応、資金援助、技術移転等の論点を持ち込み、あたかもAWG-LCAの議論全体の縮図のような代物になってしまった。

クタヤールAWG-LCA議長(右端)

 このように設置当初、「新たな法的枠組みを作る場」として我々の期待を集めていたAWG-LCAは、厄介な存在に変質しつつあった。AWG-KPの議論に辟易していた私はAWG-LCAに参加している同僚交渉官に「そっちは途上国の緩和も議論できるんだからうらやましいよ」と愚痴をいったところ、彼らから「こっちもひどいもんですよ」と言われたものだ。先進国も途上国もAWG-LCAの成果として「法的拘束力のある枠組み」という言葉を使っていたが、その意味するところは全く違うことが改めて明らかになっていた。米国のパーシング副特使は「法的拘束力ある枠組みというだけでは駄目だ。誰の、何に対する法的拘束力かを明確にしなければ」と口癖のように言っていたが、確かに先進国だけが法的削減義務を負い、資金・技術支援を義務付けられるのも「法的拘束力のある枠組み」ではあることには違いない。

 AWG-LCAの議長は前UNFCCC事務局長のマイケル・ザミット・クタヤール氏(マルタ)である。スペイン語圏の国からの発言にはスペイン語で答え、フランス語圏の国からの発言にはフランス語で答える等、練達の外交官らしい議長ぶりであったが、AWG-LCAの議論の堂々巡りには、さすがの彼もほとほと嫌気がさしたであろうと思う。

バルセロナAWG

 2009年は本格交渉の年ということもあり、AWGだけでも4月(ボン)、6月(ボン)、8月(ボン)、10月(バンコク)、11月(バルセロナ)と5回も開催された。夏休みも吹っ飛んでしまい、日本の交渉官は「お盆にボン」と自嘲気味にぼやいていた。これに加え、米国主催の主要経済国フォーラム(MEF)も4月(ワシントン)、5月(パリ)、6月(メキシコ)、9月(クラクフ)、10月(ロンドン)も5回開催され、更にデンマーク主催の非公式専門家会合もあったりして、月に1.5~2回は出張していた記憶がある。MEFや少人数専門家会合ではAWGに比して、もう少し突っ込んだ、本音の議論がなされる傾向はあったが、基本的な対立構造が解けることはなかった。そうした中でコペンハーゲン前の最後のAWGとなったのが11月2-6日のバルセロナ会合である。

 AWG-LCAの交渉テキストは年初には数10ページ程度だったものが、各国からのコメントを取り入れ、一つのパラグラフについて複数のオプションを並べる等をした結果、今や200ページ近くの代物に膨れ上がっていた。論点ごとに対立点を明確化し、簡潔な文書にする努力がなされたが、これがコペンハーゲンでの最終合意の土台になるとはとても思えなかった。

 AWG-KPでの議論は既に書いたことの繰り返しである。特にバルセロナではアフリカ諸国がナンバーグループでの議論が進まないことを理由にメカニズム等その他のセッションの議論を全てボイコットするという挙に出た。その結果、アフリカ諸国の要望を入れ、ナンバーの議論に更に時間を割くこととなったが、会合の数を増やしたとしても同じ議論を繰り返す頻度が増えるだけである。

 バルセロナは退屈なボンと異なり、ガウディの奇抜な建築で有名な一大観光地である。交渉期間中、朝ジョギングをしていたらサグラダ・ファミリア大聖堂の前で中国の解振華副主任一行に出会って挨拶を交わしたこともある。しかし観光をする気分にはとてもなれなかった。12月7-18日のCOP15まで残すところ一月しかないのである。  

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