私的京都議定書始末記(その28)
-コペンハーゲン前夜-
有馬 純
国際環境経済研究所主席研究員、東京大学公共政策大学院特任教授
特にひどかったのが「共有のビジョン」の議論である。もともとは「2050年までに地球全体で温室効果ガス排出を半減する」というビジョンを先進国、途上国で共有しようというのが、少なくとも先進国側の思いであった。しかし共有のビジョンの議論を始めてみると、途上国側が先進国の歴史的責任、大幅な削減義務、適応、資金援助、技術移転等の論点を持ち込み、あたかもAWG-LCAの議論全体の縮図のような代物になってしまった。
このように設置当初、「新たな法的枠組みを作る場」として我々の期待を集めていたAWG-LCAは、厄介な存在に変質しつつあった。AWG-KPの議論に辟易していた私はAWG-LCAに参加している同僚交渉官に「そっちは途上国の緩和も議論できるんだからうらやましいよ」と愚痴をいったところ、彼らから「こっちもひどいもんですよ」と言われたものだ。先進国も途上国もAWG-LCAの成果として「法的拘束力のある枠組み」という言葉を使っていたが、その意味するところは全く違うことが改めて明らかになっていた。米国のパーシング副特使は「法的拘束力ある枠組みというだけでは駄目だ。誰の、何に対する法的拘束力かを明確にしなければ」と口癖のように言っていたが、確かに先進国だけが法的削減義務を負い、資金・技術支援を義務付けられるのも「法的拘束力のある枠組み」ではあることには違いない。
AWG-LCAの議長は前UNFCCC事務局長のマイケル・ザミット・クタヤール氏(マルタ)である。スペイン語圏の国からの発言にはスペイン語で答え、フランス語圏の国からの発言にはフランス語で答える等、練達の外交官らしい議長ぶりであったが、AWG-LCAの議論の堂々巡りには、さすがの彼もほとほと嫌気がさしたであろうと思う。
バルセロナAWG
2009年は本格交渉の年ということもあり、AWGだけでも4月(ボン)、6月(ボン)、8月(ボン)、10月(バンコク)、11月(バルセロナ)と5回も開催された。夏休みも吹っ飛んでしまい、日本の交渉官は「お盆にボン」と自嘲気味にぼやいていた。これに加え、米国主催の主要経済国フォーラム(MEF)も4月(ワシントン)、5月(パリ)、6月(メキシコ)、9月(クラクフ)、10月(ロンドン)も5回開催され、更にデンマーク主催の非公式専門家会合もあったりして、月に1.5~2回は出張していた記憶がある。MEFや少人数専門家会合ではAWGに比して、もう少し突っ込んだ、本音の議論がなされる傾向はあったが、基本的な対立構造が解けることはなかった。そうした中でコペンハーゲン前の最後のAWGとなったのが11月2-6日のバルセロナ会合である。
AWG-LCAの交渉テキストは年初には数10ページ程度だったものが、各国からのコメントを取り入れ、一つのパラグラフについて複数のオプションを並べる等をした結果、今や200ページ近くの代物に膨れ上がっていた。論点ごとに対立点を明確化し、簡潔な文書にする努力がなされたが、これがコペンハーゲンでの最終合意の土台になるとはとても思えなかった。
AWG-KPでの議論は既に書いたことの繰り返しである。特にバルセロナではアフリカ諸国がナンバーグループでの議論が進まないことを理由にメカニズム等その他のセッションの議論を全てボイコットするという挙に出た。その結果、アフリカ諸国の要望を入れ、ナンバーの議論に更に時間を割くこととなったが、会合の数を増やしたとしても同じ議論を繰り返す頻度が増えるだけである。
バルセロナは退屈なボンと異なり、ガウディの奇抜な建築で有名な一大観光地である。交渉期間中、朝ジョギングをしていたらサグラダ・ファミリア大聖堂の前で中国の解振華副主任一行に出会って挨拶を交わしたこともある。しかし観光をする気分にはとてもなれなかった。12月7-18日のCOP15まで残すところ一月しかないのである。