改めて「重要なベース電源」の意義を示すべき
我が国の「健康状態」と原子力の「効能」「副作用」を踏まえた説明を
堀越 秀彦
国際環境経済研究所主席研究員
振り替えれば、我が国の原子力利用は、リスクとメリットがよく認識されないままに推進されてきたように思える。
例えば、小泉元首相が「原発ゼロ」と言い出したのはフィンランドの高レベル放射性廃棄物の処分場を見たことがきっかけだそうだが、高レベル放射性廃棄物の発生は原子力利用には必然的に伴うものであり、新しく発生した問題ではない。また、福島のような事故についても、従来、シビアアクシデントは発生しないかのように説明されてきた経緯があり、やはり事前には覚悟ができていなかったのだろう。逆に、我が国が原子力発電を利用する理由についても、時には資源小国、時には温暖化と、場当たりでいまひとつ一貫した説明がなかったように思える。
平成24年には民主党政権下において「エネルギー・環境の選択肢に関する国民的議論」が開催され、原子力やエネルギーに対する国民の認識と覚悟を形成させる端緒を開いたかのように思われた。当時の世論には原子力依存度を下げるべきという空気があったと記憶している。しかしながら、同年12月の衆議院選挙の自民党の大勝を境に原子力を問う論争は急激に鎮まり、平成25年には原子力発電所の再稼働に向けた動きが次々に報じられるようになった。これを、「なし崩し的」とみる向きもあるだろう。
もちろん、原子力利用の再開の動きは、何の対策もなしに進められているわけではない。まず、平成24年の原子炉等規制法の改正ではシビアアクシデント対策が規制に取り込まれた。同年9月には原子力規制庁が発足し、厳格な規制が適用されていくのだろう。また、長きにわたって進展のなかった高レベル放射性廃棄物の処分問題についても、道筋をつけるために国が前面に立つ動きがある。安全性と放射性廃棄物は原子力利用に伴う問題の代表格とされるが、それぞれに解決の方向で取り組みが進められている。
だが、それだけでは判断材料として不十分だ。
人は多くの側面でリスクとベネフィットを天秤にかけて判断する。病気の人にとって必要な効能が得られるなら、副作用のある薬を用いることにも合理性がある。また、病気であっても、必要な効能が得られないならば、いくら副作用が小さくてもその薬を用いる必要は感じられない。また、そもそも健康な人に薬は不要である。
これをいまの原子力についてあてはめてみると、事故後、目につくのは安全性向上や放射性廃棄物対策など「副作用」を小さくしているという説明ばかりで、エネルギー情勢、地政学的問題といった「健康状態」や、天秤の反対側にある「効能」のまとまった情報は少ない。せいぜい、安定供給、コスト低減、地球温暖化対策と簡単に言及されているくらいである。
しかし、安定供給に不安を与えたオイルショックからは既に40年が経過している。エネルギーを巡る国際情勢も遠い国の話である。地球温暖化対策としては再生可能エネルギーが期待されている。コスト面でも、原子力は割高との試算もある。また原子力が本当に低コストであっても脱原発によるコストの上昇は受け入れるべきとか、豊かさを見直すべきといった意見さえある。そしていま現在、我が国の原子力発電所はほとんど稼働していないが電気は安定供給されている等々。もはや、安定供給、コスト低減、地球温暖化対策と簡単に言うだけで理解を得られる状況ではないだろう。
原子力という薬の「副作用」の大きさという論点もさることながら、より根本的には、我が国の「健康状態」や原子力の「効能」についての説明が不足していると思えてならない。
もちろん、エネルギー政策は世論のみに依拠して決定すべきものではないし「重要なベース電源」との位置づけは妥当なのかもしれない。だからと言って国民への説明が不要ということにはならない。今さら言うのも憚られるが、原子力利用にも「原発ゼロ」にもリスクとベネフィットがあり、誰もが満足する解はない。ある選択による負の効果が顕在化することもあるだろう。国民にとって、その負の効果が納得のうえで受け入れたものか、知らないところで決められたものかには大きな違いがある。だからこそ、それぞれの選択による得失を国民が認識し、理解と覚悟のうえで選択がなされるべきなのである。
エネルギー問題や原子力への国民の関心は、不幸な事故を契機に高まった。この状況は国民がエネルギー問題を我が身のこととして考えるチャンスでもある。これを曖昧に沈静化させて原子力利用の再開を図るのではなく、改めて我が国のエネルギー事情や原子力のベネフィット(あるいは利用しないリスク)を国民に説明し、支持を問うことが求められているのではないだろうか。