私的京都議定書始末記(その4)
-COP6の決裂-
有馬 純
国際環境経済研究所主席研究員、東京大学公共政策大学院特任教授
プロンク・ペーパーが出た直後から、英国のプレスコット副首相が米欧対立による交渉決裂を防ぐために調整に乗り出していた。3.7%の吸収源獲得は日本にとって死活問題であったが、欧州が本当に気にしていたのは米国やロシアのような巨大な国土、森林を有する国々に膨大な吸収量を認めることに歯止めをかけることであった。プレスコット副首相の努力により、米国も吸収量の数字に一定のキャップをかけることに歩み寄ったようだった。その関連で吸収量が相対的に小さい日本については要求水準に相当近いレベルの吸収量が認められそうな状況になっていた。したがってメカニズム戦線における原子力CDMというワン・イシューを理由にパッケージ合意をつぶすことはできなかったのだ。
土曜明け方までの閣僚折衝で合意の見通しが出来たかに見えた。ところが土曜午前になって、「交渉が決裂したようだ」という話が飛び交った。EU内でパッケージ案に関する合意が得られなかったということだ。後日、米欧の橋渡しに奔走したプレスコット英副首相が「ボワネ仏環境大臣は、疲労困憊して全体の仕組みに対する判断ができず、交渉を決裂させた」と批判して話題になったが、ここらへんが真相だったようだ。プロンク議長は土曜午後、最後の調整努力を閣僚達に求めたが、結局、合意は得られず、土曜午後6時半、COP6は合意に達しないまま中断し、2011年に再開会合を開催することが合意された。
私にとって初めてのCOP会合は、このように混乱の中で終わった。会合終了直後から、失敗の責任は誰にあるか、という非難ゲーム(blaming game)が始まっていた。「日本が交渉の足を引っ張った」という現在も続く自虐的な報道もあったが、現実は米欧対立、更には欧州の中での調整失敗が原因である。色々なことを学んだ2週間であった。交渉には体力が必要なこと、タコつぼにはまって交渉していると全体像が見えなくなること、マルチの国際会議は「生き物」であり、合意が出来かけたかと思うと、いとも簡単に崩れたりもすること、失敗すれば、常に誰かを悪役に仕立てようとすること等々である。しかし、2週間に及ぶ昼夜を問わない交渉は、身も心も疲労困憊させるものであり、「もうこりごりだ」と思った。その時点では、COP会合に合計9回も出席する羽目になるとは夢にも思わなかった。