私的京都議定書始末記(その2)
-初めてのボン、アンブレラ会合-
有馬 純
国際環境経済研究所主席研究員、東京大学公共政策大学院特任教授
アンブレラ会合に初めて出席し、色々な人々と出会った。アンブレラグループの当時の議長はカナダ環境省のジョン・ドレクセージ氏。米国は国務省のトリッグ・タリー氏が中心人物だった。その他、ニュージーランドのムレイ・ウオード氏、ノルウェーのゲオルグ・ボースティング氏等が主要メンバーであった。その中には米国のタリー氏やノルウェーのボースティング氏のように、現在も交渉官として活躍している人もあれば、カナダのドレクセージ氏のように、その後、政府を離れ、地球温暖化関連のシンクタンクやNGOに参加した人もいる。共通していることは、この世界に足を踏み入れた人は、その後なかなか抜けられない(あるいは抜けたがらない)ということだ。私は2002年から2007年末まで交渉から離れていたが、5年ぶりに交渉に戻ってみると、相変わらず知った顔が会場を闊歩しているのを見て、その感を強くしたものだ。
アンブレラ会合に出席して、ショックだったのは、皆の言っていることがさっぱりわからないことだった。OECD代表部でIEAやOECDのマルチ会合に出席し、英語はそれなりにわかるつもりでいた。しかしアンブレラ会合では皆が条文番号や、人の固有名詞、この世界でしか通用しないjargon(例えばCDM、JI、排出量取引のクレジットが相互に交換可能なことを意味するfungibility などという言葉は辞書にも載っていない!)を連発しながら話をしていた。彼らが仮に日本語で話をしていたとしても、半分も理解できなかっただろう。大変な世界に入ってしまったと途方に暮れた。
ここで、その当時、日本政府は国際交渉で何を目指していたかを説明したい。激しい交渉の末、京都議定書が97年にとりまとめられたが、その詳細ルールはその後の交渉に委ねられていた。いわば法律はできたが、政令、省令ができていないようなものだ。98年以降は、そうした詳細ルールの交渉が行われていた。既に述べた通り、日本は京都議定書で90年比6%削減目標に署名していた。しかし、既に省エネが最も進んでいた日本では、6%を全て国内対策で達成することは不可能だった。国内対策での削減分はせいぜい90年比横ばい、残りは森林吸収源3.7% と京都メカニズムで達成するというのが6%受け入れの前提であった。けれども、これはあくまで日本の皮算用であり、森林吸収源の計測ルールも京都メカニズムの実施細則も全く決まっていなかった。仮に森林吸収源の計測ルールが非常に制限的なものになったり、京都メカニズムの利用が制限的なものになった場合、6%という目標は決まっているため、その分、国内対策の数字を深堀りしなければならないことになる。これは膨大なコストを日本経済に強いることになり、何としてでも避ける必要があった。
このため、日本が京都議定書を批准するに当たっては、森林吸収源の計測ルールで3.7%分を確保すること、京都メカニズムのルールをできるだけ柔軟で利用しやすいものにすること、そして遵守メカニズムが罰則などを伴う厳しいものにしないことの3点が至上命題だった。目標値に合意する場合、その実現可能性や達成方法について成算があることが普通のアプローチだ。しかし、この交渉では、6%が先に決まっており、その構成要素の計算方法はその後の交渉に委ねるという、真逆のことをやっていた。今から考えても、実に馬鹿げたゲームをやらされていたと思う。EUは東西ドイツ統合、英国のdash for gas 等で90年比8%減は何の努力をしなくても達成できる。他方、日本が6%削減するためには、これから交渉する森林吸収源の計算方法、京都メカニズムの細則で、自分の皮算用を現実に確保せねばならない。EUに比して交渉ポジションが弱くなるのは当たり前のことだった。元をただせば、日本6%、米国7%、EU8%という京都議定書の目標値は日本の一人負けだった。この頃の交渉は「京都議定書を批准可能なものにするための実施細則の交渉」であったが、日本にとっての本質は、「京都議定書での『負け』のダメージを最小限にするための交渉」であったと言えよう。