エネルギー問題とイソップ寓話
徳本 恒徳
ガス会社OB
筆者がエネルギー問題を考える時に思い出すのは、イソップ寓話「アリとキリギリス」である。やがて必ず冬がやってくるという、彼らにとって避けることのできない制約条件に、まだその気配もなかった夏の間に対応できたかどうか、それが彼等の明暗を分けた。
エネルギーについてはどうだろうか。原発がほとんど稼動せず、老朽火力を総動員して対応しているものの、とりあえず停電もなく、なんとかやっていけているのが現状だ。ガスも石油も、必要なだけ使うことができているのだから、多くの国民にとって、今はまだ「夏」なのだろう。それでは、この「夏」は維持できるのであろうか、あるいは日本にとって避けがたい制約とは何だろうか。
日本のエネルギー政策を考える上で、日本は比類なき資源貧乏国であるという事実をもう一度確認しておくべきではないだろうか。エネルギーにしても、鉱物資源にしても、日本国内の産出量は雀の涙に過ぎない。一方、国民が満足できる文化的な生活レベルを維持していくためには、必要な資源を何とか確保しなければならないのは当然である。特にエネルギー資源は、一度使えば再生産できずに消えていくものであるから、日本はそれを海外から継続的に購入せざるを得ず、そのためには経済活動の稼ぎによって必要な資金を確保していく、いわば自転車操業を続けていかなければならない。これが日本の置かれた状況であり、経済活動が停滞してこの循環が不可能になった時が日本の「冬」ではないだろうか。この場合には、電気料金の値上げを我慢するとか、贅沢をしないで質素に暮らすなどということでは対処できない悲惨な状況が待っている。社会福祉の水準も全く維持できなくなるだろう。しかしイソップ寓話とは異なり、この「冬」が必ず来ると決まっているわけではなく、いわば隠れているだけに、予期と対応が難しいという悩ましさがある。
キリギリスに限らず人間も、なんとかやっていける間は厳しい状況を想定したくないというバイアスを持っているのではないだろうか。政治においても、議員が選挙によって選出される以上、国民にウケの悪いつらい選択を求めることは簡単ではない。だからこそ、国民の理解を求めるためにいくつかの選択肢を提示して意見をもらう、というアプローチが取られるのであろうが、その場合でも各選択肢が必然的に抱えている問題点については軽く扱われるというバイアスがあるように思われる。例えば前政権のエネルギー・環境会議が示した2030年のエネルギー選択肢は、主として原発比率を軸として示されているが、原発ゼロのシナリオにおいても65%が火力発電となるとされている。国民としては、それに必要な化石燃料を手当てできる経済活動は可能だという前提でのシナリオのはずだと思いたいが、実際には産業界を中心にして反論が出されているものの、広く知られているわけではない。もしも我々が、ひとつの選択肢について、その裏側に隠れている問題については知らないままに賛意を表してしまい、後になってこんなはずではなかった、という事態になるとすれば、それはキリギリスの抱いた後悔の再現である。為政者には、選択肢のプラス面と併せて、それが抱える問題点や国民が何を我慢すればよいのかという、つらい面を明確に説明していただくようお願いしたい。我々国民も、キリギリスの快適な夏が続かなかったのと同様、うまいことばかりの話はないのだということを肝に銘じておくことが肝要だろう。