原発再稼働の現場(大飯原発を例にして)


国際環境経済研究所前所長

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(共著:国際環境経済研究所主席研究員 竹内純子)

 原子力発電所の再稼働問題は、依然として五里霧中状態にある。新しく設立された原子力規制委員会や原子力規制庁も発足したばかりであり、再稼働に向けてどのようなプロセスでどのようなアジェンダを検討していくのかは、まだ明確ではない。
 そんななか、新たに原子力規制委員長に就任した田中俊一氏のインタビュー記事が、9月24日の毎日新聞に掲載された。
 同氏は「防災体制がきちんとしていないと、国民の納得はいただけない」と話されているが、この点は我々も同意見だ。福島原子力事故により、重大事故が起きた場合には速やかに住民の避難を図ることが重要であることが認識されたが、周辺自治体・住民・発電所の連携した訓練はこれまで形式的なものに留まっていたと言わざるをえない。原発がゼロリスクではないことを認めると反原発運動を刺激したり混乱を招いたりすると考えてのことであっただろうが、原発自体の事故リスクを最小化する努力とあわせ、原発がゼロリスクではないことを認めて、いざ事故が発生したときに被害を最小化する努力が必要である。
 また、その記事では、田中氏は『再稼働の科学技術的な判断は「規制委がやる」としながらも「原発運転の是非は社会的、政治的判断を伴う。(規制委が再稼働を認めた原発を)動かすかどうかは政府、政治の問題だ」と述べ、政府にも責任があるとの認識を示した。』と伝えている。これも、正論だ。しかし、一方の政府では、細野前環境大臣の発言として伝えられているように、規制委員会の判断が実質的に再稼働の可否の判断になると、責任回避の姿勢を強めている。
 安全基準や安全審査は科学的・技術的根拠に基づいて行われるべきであり、そこに政治の思惑が入り込むならば、原子力規制委員会そのものの存立基盤が揺るぐ。日本の原子力開発当初の一時期、政治家たる科学技術庁長官が原子力委員会委員長を兼ねて推進も安全も見ていたという組織が、安全と推進に分離され、紆余曲折を経て今日に至った経緯を考えれば、田中氏の発言も頷ける。
 逆に、福島原発事故以降、頻繁かつ顕著な政治の判断・決断責任回避姿勢は、日本の原子力問題のマネジメントをどんどん難しくしている。菅元総理による浜岡原発の停止「要請」は、法的根拠に基づいたものではなく、行政指導ベース、もっと悪くいえば、社会的圧力を利用した政治的パフォーマンスだったというしかない。浜岡原発が地震や津波に対する脆弱性があるから、自主的に止めてくれというのであれば、専門性に欠ける内閣総理大臣がそう発言する前に、少なくとも当時の原子力安全委員会から技術的評価に基づいた勧告を受けるという行政行為があってしかるべきである。
 さらに重大な問題はストレステストだ。これも全く法的根拠がなく、関連大臣による行政指導である。例えて言うなら、人間ドックで様々な検査を受け、健康体だとのお墨付きを得て帰宅しようとしたら、突然別の検査も必要ですといわれて入院を続けさせられているようなものだ。そうした懸念を真剣に持っていたのであれば、昨年福島の事故があった後、浜岡を含むすべての原発を即刻停止させ(法的行為として行うことは可能)、再稼働までのプロセスを少なくとも閣議決定レベルで明示的に規定すべきだったのである。でなければ、再稼働まで事業者は何をやればよいか、行政は何をやればよいかがわからない状態になってしまい、その場その場の思いつきで手続きを進めていくしかなくなるのだ。
 実際、その懸念通りの展開となったのは、大飯原発の再稼働プロセスを見ていればよくわかる。そうした国の仕事の進め方のいい加減さが、近畿地方の自治体首長や立地自治体の首長の不安と怒りをもたらしたばかりか、原発の再稼働が一部の首長から政治的ゲームの対象にまでされてしまったのである。