原子力損害賠償法の改正に向けて⑤
―電力事業の資金調達力に与えた影響について―
竹内 純子
国際環境経済研究所理事・主席研究員
国の「援助」とは何か-日本独自のスキームが意味するところ
第1回において、各国の原子力損害賠償制度の共通原則を述べたが、事業者に無限責任を負わせ、国が必要な「援助」を行うとした同法第16条は、我が国独自のスキームである。立法当時の議論を振り返る。
昭和34年12月12日、故我妻栄東京大学名誉教授を会長とする原子力災害補償専門部会は「損害賠償措置によってカバーしえない損害を生じた場合には国家補償をすべきである」と答申した。原子力事業が国を挙げて取り組む政策である以上、被害者の保護に欠けるところがあってはならないという趣旨からである。
序文には「原子力事業者に重い責任を負わせて被害者に十分な補償をえさせて、いやしくも泣き寝入りにさせることのないようにするとともに、原子力事業者の賠償責任が事業経営の上に過当な負担となりその発展を不可能にすることのないように、適当な措置を講ずることが必要」とあり、基本的な政策理念が明らかにされている。そして答申全体からは、原子力という未知の技術に起因する災害補償制度構築に手探りで取り組んできた関係者の強い意思が感じられるものとなっている。
しかし、法案の政府部内調整では、たとえ原子力事業であっても、民間事業者が主体である限り、その事業において発生した被害について、国が直接損害賠償責任を負うことは不合理であるとの消極論が強く(このあたりの経緯は、竹森(2011)に詳しい)、結局同法第16条第1項は第2回で指摘した通り、政府が「事業者が損害を賠償するために必要な援助を行う」と規定するにとどまった。また同時に、同法の目的も、「被害者の保護」に加えて「原子力事業の健全な発達」が挿入され、国が直接的に被害者に賠償責任を負うのではなく、賠償責任を一義的に負う事業者に対する資金援助を通じての間接的な支援にとどまるという構造が明示的に形成されたのである。
法案成立後我妻教授は、部会の答申と法は立脚する構想が異なる、と批判している。「原子力の平和利用という事業は、歴史上前例のないものである。その利益は大きいであろうが、同時に、万一の場合の損害は巨大なものとなる危険を含む。従って、政府がその利益を速進する(ママ)必要を認めてこれをやろうと決意する場合には、被害者の一人をも泣きね(ママ)入りさせない、という前提をとるべきである」としたうえで、「事業者の助成と保護という衣を着て、煮え切らない態で『援助』するというだけである(16条)。実際問題としては、政府と国会の良識によって被害者が保護されることになるであろう」と述べている。(1)
同様に故竹内昭夫東京大学名誉教授(当時助教授)も、法の文言通り、賠償の履行に必要な限りは無制限な援助が約束されているならば理想的な体制だろうとしたうえで、そもそも答申の構想に則って立法がなされなかった理由が、国の財政能力からみて困難という政府部内の意見を反映した結果だとすると、国の関与については「後退」を意味し、事業者に不安を与えていると指摘している。さらに「衆議院の科学技術振興対策特別委員会で、『被害者の保護に遺憾なきを期するため、政府は充分なる援助を行うと共に、あらかじめ、この被害者保護の目的に沿うよう・・・事業者の利益金積立等について指導を行うべきである』という妙な付帯決議がなされたりすると、いったい政府や国会は必ず援助するつもりなのかどうか、甚だ疑わしいということになってしまう。」(2)としている。
結局、故我妻教授が第38回衆議院・科学技術振興対策特別委員会で参考人として述べた通り、理論的にすっきりしない点があること、そして、政府及び国会の良識に運用が委ねられてしまうことが、当初から危惧されていたのである。
原子力産業の健全な発達に資するために国が助成を行うことはできても、民間原子力事業者が第三者に与えた損害を国が賠償することはできないとする理屈は、他の産業災害とのバランスを考えれば一理あるが、原子力損害の特殊性を考えれば「一理」でしかないとも言える。原子力事業は国のエネルギー政策の重責を担ってきたセクターあり、官民がこれまで一体となって推進してきたという側面もある。大きな事故が発生すれば、経営基盤が根本から損なわれて実質的に破綻してしまいかねない民間の事業者のみが賠償責任を負う構造になっている現行原賠法は、事業の健全な発展のみならず、被災者の十分な救済を保障するものになっているとは言い難いのではないだろうか。