国際がん研究機関IARCが引き起こす世界的な大混乱(その-2)
2.混乱のパターン―社会に与えた損害のケーススタディ
唐木 英明
東京大学名誉教授
2. 混乱のパターン―社会に与えた損害のケーススタディ
2.1 グリホサート大炎上―不適切な評価の破壊的結末
2015年、IARCは除草剤ラウンドアップの有効成分であるグリホサートを「グループ2A(ヒトに対しておそらく発がん性がある)」と分類した。この発表は、世界中の規制科学界に衝撃を与えた。なぜなら、それは世界の主要な規制機関が長年にわたる評価を通じて下してきた結論と真っ向から対立するものだったからだ。この科学的孤立の状況を以下の表に示す。
この表が示すように、IARCの結論は国際的な科学的コンセンサスからの逸脱であり、孤立した見解である。この乖離の背景には、深刻な手続き上の問題が存在する。それは、第一に、データの意図的な除外疑惑である。ロイター通信の報道によれば、IARCの作業部会は、グリホサートとがんの関連性を否定する大規模な疫学研究「農業従事者健康調査(AHS)」の未発表データを認識していながら、評価から排除した。作業部会の議長であったアーロン・ブレア博士自身が、このデータがあればIARCの結論は変わっていた可能性があると、米国で行われたグリホサート訴訟において、宣誓証言で認めている。IARCは「公表された論文のみを評価対象とする」という内規を盾にこれを正当化しているが、これは自らの結論に都合の悪い証拠を排除するために規則を盾にした、という批判は免れない。
第二は、すでに述べた草案の改ざん疑惑である。これは、科学的議論の末の結論というよりも、特定の結論に向けた文書操作が行われた可能性を示唆するものである。第三は、これもすでに述べた、ポルティエ博士の深刻な利益相反である。同博士が、評価直後にモンサント社を相手取った訴訟で原告側法律事務所の有給コンサルタントとなっていた事実は、IARCの評価が訴訟のための「お墨付き」を与えるパイプラインとして機能したことを強く疑わせる。
IARCによる「ハザード同定」は、現実世界で壊滅的な経済的・法的影響を引き起こした。特に米国の司法制度において、グリホサートの「グループ2A」分類は、原告側弁護士にとってWHOの権威をまとった強力な武器となった。科学的コンセンサスを無視したこの分類を根拠に、多くの裁判で陪審は製造者に対して巨額の賠償金(その多くは懲罰的損害賠償)を命じる評決を下した。これにより、被告であるバイエル社(モンサント社を買収)は、訴訟リスクを管理するために、100億ドルを超える和解金の支払いを余儀なくされたのだ。
このように、IARCによる不合理な「ハザード同定」が、世界の規制機関の総意を覆し、歴史上最大級の大規模製造物責任訴訟を引き起こし、天文学的な経済的損害をもたらしたのだ。IARCの評価が持つ破壊的な影響力を示す、最も深刻な事例と言えよう。
2.2 身の回りはすべて発がん物質―混乱の反復
グリホサート問題は孤立した事件ではない。それは、IARCが身近な物質や技術に対して科学的コンセンサスから外れた警告を発し、社会に混乱をもたらしてきた反復パターンの一つにすぎない。
電磁波(2011年):IARCは携帯電話などが発する高周波電磁界を「グループ2B(ヒトに対して発がん性がある可能性がある)」と分類し、「携帯電話で脳腫瘍になる」という風評を世界中に拡散させた。この発表は社会に大きな不安をもたらしたが、WHO本体は「携帯電話の使用によっていかなる健康への悪影響も確立されていない」との見解を示し、米国食品医薬品局(FDA)も同様に、30年近くにわたる科学的証拠の重みは、携帯電話の使用とがんなどの健康問題とを結びつけていないと結論付けている。携帯電話が爆発的に普及して数十年が経過した現在も、脳腫瘍の発生率に相関するような増加は見られず、IARCの警告が過剰であったことを示唆している。最近になって、動物実験でがんとの関連を示唆する研究も報告されたが、確証を得るには至らず、IARCの分類は、限定的な証拠に基づき、不釣り合いな恐怖を生み出したという事実は変わらない。
加工肉・赤肉(2015年):IARCは加工肉を「グループ1」、赤肉を「グループ2A」に分類し、世界に衝撃を与えた。特に「加工肉を毎日50g摂取するごとに大腸がんのリスクが18%増加する」という具体的な数値の公表は、前後の文脈を欠いたままセンセーショナルに報じられ、加工肉製品の売上減少など、経済的な影響も引き起こした。この騒動に対し、食品安全委員会は「日本人の平均的な摂取量であればリスクはあってもごく小さい」と火消しに追われ、WHO本体でさえ、赤肉の栄養学的価値に関する情報を発信し、IARCの単純なレッテル貼りとは異なるバランスの取れた視点を示すことを余儀なくされた。これは、IARCの発表がいかにハザードとリスクを混同させ、他の保健機関に余計な負担を強いているかを示す好例である。
アスパルテーム(2023年):この事例は、WHOという組織内での自己矛盾を最も露呈したケースである。2023年、IARCは人工甘味料アスパルテームを「グループ2B」に分類した。しかし、同時に、同じくWHO傘下の専門家委員会であるJECFAは、同じ科学的証拠をレビューした上で、「安全性を懸念する理由はない」とし、既存の一日摂取許容量(ADI)を変更する必要はないと結論付けた。
これは、WHOという一つの看板の下で活動する二つの専門機関が、異なる評価手法(ハザード同定 vs リスク評価)を用いた結果、公衆に対して矛盾したメッセージを同時に発信するという、信じがたい制度的失敗である。メディアは「アスパルテームに発がん性の可能性」と大々的に報じ、消費者の間に混乱が広がり、一部のメーカーは代替甘味料への切り替えを検討する事態となった。WHO自身の内部リスク評価機関が安全と結論付けた物質について、同じWHOの別の機関が不安を煽る。これほどまでに公衆衛生コミュニケーションを混乱させる行為は、他に類を見ない。
有機フッ素化合物(PFAS)(2024年):ごく最近の事例として、IARCはPFASの一種であるPFOAを「グループ1」、PFOSを「グループ2B」にハザード分類した。これもまた、確立された因果関係がないにもかかわらず、「発がん性」という言葉を強調するメディア報道を誘発し、日本の食品安全委員会などがリスク評価の結果、発がん性を否定しているにもかかわらず、社会に誤解と不安を拡散している。
これらの多くの事例が示すのは、グリホサートが決して例外ではなく、IARCの構造的欠陥が必然的にもたらす、予測可能で反復的な混乱のパターンという事実である。
2.3 予防原則の口実―無用な規制と訴訟
IARCのハザード特定は、それ自体が規制措置を伴わない、単なる科学的分類である。しかしこれが、現実の政策決定や社会運動において、「予防原則」を安易に発動させるための強力な口実として利用されている。
最も象徴的な例が、カリフォルニア州の「プロポジション65」である。この州法は、IARCが「ヒトまたは動物の発がん性物質」と特定した物質を、警告表示義務のある化学物質リストに自動的に加えることを規定している。IARCがグリホサートを「グループ2A」と分類した結果、カリフォルニア州はこれをリストに追加し、製品への警告表示を義務付けた。これは、IARCの判定のみを根拠に、予防的な規制が発動された典型例である。この警告義務は、科学的コンセンサスが確立していない中で特定の見解を強制するものであり、「事実の表明」ではなく「強制された意見表明」になっているとして、後に合衆国憲法修正第1条(言論の自由)に違反するとの司法判断が下された。
携帯電話の高周波電磁界を「グループ2B」と分類した際も、同様の事態が起きた。科学的証拠が限定的であるにもかかわらず、WHOの専門機関による発表として重く受け止められ、英国政府や米国小児科学会(AAP)などは、特に感受性が高いと考えられる子供たちの携帯電話使用を制限するよう勧告した。IARCの分類が、具体的な予防行動を促すための口実として機能したのだ。
アスパルテーム評価は、この構造の異常さをさらに浮き彫りにした。IARCがアスパルテームを「グループ2B」に分類すると、欧州消費者団体Foodwatchなどは即座に「予防原則」の適用を強く主張し、その禁止を求める請願活動を開始した。JECFAが「安全性を懸念する理由はない」と結論付けていたにもかかわらず、IARCの評価だけを切り取って、規制強化を求めるための政治的・社会的な武器として利用した事例である。
これらの事例は、IARCの評価が科学的な議論の範疇を超え、いかに容易に政治的・社会的な道具にされてしまうのかを示している。科学的コンセンサスやリスクの大きさを無視したまま、間違った判決、不必要な規制、経済的損失、そして市民の不安が助長されているのだ。
3. 混乱の代償と今後の道筋
IARCがもたらした損害は多岐にわたるが、特に深刻なのは以下の3点である。第一に、科学と公衆衛生機関に対する国民の信頼の侵食である。IARCが、同じWHO傘下のJECFAや、各国の主要な規制機関(EPA、EFSA、食品安全委員会など)と矛盾する結論を発表することは、一般市民に「専門家の意見は分かれている」という印象を与える。その結果、科学そのものへの信頼が揺らぎ、人々はどの情報を信じればよいのか分からなくなり、結果として科学に対する冷笑主義や不信感を育んでしまう。これは、公衆衛生という共通の目標に向かって協力すべき機関同士が、互いの信頼性を削り合うという、極めて自己破壊的な状況である。
第二に、メディアによる恐怖の増幅と誤情報の拡散である。IARCが発表する「発がん性あり」「おそらく発がん性あり」といった単純明快で警鐘的な分類は、メディアにとって格好のヘッドラインとなる。リスクの大きさや現実世界での曝露レベルといった重要な文脈は、多くの場合省略され、ハザードの可能性だけがセンセーショナルに報じられる。IARCのコミュニケーション戦略は、このようなメディアの特性を最大限に活用し、不必要な恐怖を社会に拡散する装置として機能する結果になっている。
第三に、訴訟誘発エンジンとしての機能である。グリホサートの事例で見たように、IARCの分類は、特に米国の製造物責任訴訟において、原告側の主張を科学的に権威付けるための決定的な証拠として利用されている。本来、規制目的ではないはずの「ハザード同定」が、司法の場で事実上の有罪宣告として機能し、科学的コンセンサスとは無関係に、企業に天文学的な経済的負担を強いる結果となっている。これは、科学的評価がその本来の目的を逸脱し、経済活動を不当に毀損する凶器と化している深刻な事態である。そして、第四に、IARCの評価が安易な予防原則の主張に援用されることである。
ベルギー・ブリュッセルのオディセー大学でコミュニケーションとマーケティングの教授を務めるデビッド・ザルーク氏が運営する著名なブログ「The Risk-Monger」は、IARCを「科学的な議論を装いながら、特定の政治的・思想的な目的を推進している機関」と見なし、その評価方法の非科学性、組織の偏向、透明性の欠如を厳しく批判している。そしてザルーク氏の意見に、筆者を始め、世界の多くの専門家が同意しているのだ。
この問題の根本的な解決策は、IARCのハザード同定機能を、JMPRやJECFAのような包括的なリスク評価を行う機関に統合することである。これにより、公衆に対する矛盾したメッセージの発信が終わり、ハザード同定が常にリスクという適切な文脈の中で提示されるようになる。この統合が困難であるならば、資金拠出国はIARCを解体し、その予算をより効果的で現代的な公衆衛生プログラムに再配分することを真剣に検討すべきである。ちなみに、IARCの主要な資金拠出国とその分担金を見ると、米国、日本、中国が330万ユーロで最も多く、次いでドイツ、英国、フランスが220万ユーロで2番目である。これらの加盟国は現実を直視し、決断を下す責任がある。科学に対する信頼を守り、真に意味のある公衆衛生の進歩を促すために、今こそ抜本的な改革が必要である。IARCの存在意義が合理的な疑いを超えて問われている状況の中で、行動を先延ばしにする選択肢は存在しない。