森、川、海のつながりに立脚したまちづくり
畠山 信
NPO法人 森は海の恋人 理事長
色とりどりの大漁旗が森の中に翻ったのは平成元年のことでした。漁師が山に木を植える「森は海の恋人運動」は全国に広がりを見せ、現在は小、中学校や高校の教科書にも掲載されています。しかし、事の発端はあまり知られていません。
1960年代頃から気仙沼湾の水質が悪化し頻繁に赤潮が発生するようになりました。プランクトン食の牡蠣の身は赤く染まり、市場では「血牡蠣」と酷評され、出荷した牡蠣は全て焼却処分されてしまいました。同時期に気仙沼湾に流れ込む2級河川の大川中流部に多目的ダムの建設計画が起こりました。森は海の恋人運動の始まりは、ダム建設と自然保護という側面があります。
国内には約35,000本の河川がありますがダムの無い川は稀です。ダムは治水や利水等、人々の生活に恩恵を与える一方で、川の持っている森の栄養分を海に運ぶというダイナミズムを破壊し河川内および河口域の生物生産量を大幅に低下させる効果もあります。
牡蠣の養殖は国内外で広く行われていますが、生産海域は川が流れ込む汽水域でなければなりません。その理由は牡蠣のエサは植物プランクトンだからです。植物プランクトンの生育には主に陸域を起源とする栄養塩類が必要で、それらは川や地下水によって海へと運ばれています。ダムが建設されることで河口域の生物の生産性が低下し、牡蠣等の養殖業者は廃業に追い込まれることが目に見えていました。そこで、漁業者を中心にダムの建設に反対の意向を示したのです。
日本は土木技術に秀でた国であるため、また、直接的な反対運動では地域内に禍根を残し結果として敗退することがしばしば。そこで、流域の住民をふんわりと包み込むような反対運動として、漁師が山に木を植える『森は海の恋人植樹祭』という奇策に打って出たのです。作戦は成功しました。「何故、漁師が山に木を植えるのか?」という疑問を世に投げかけたことで多くのメディアが挙って取材に訪れ、核となるダム建設問題を取り上げて拡散してくれたのです。その結果、ダム建設計画は白紙となりました。
森は海の恋人植樹祭は毎年1回、6月の第一日曜日に開催されています。平成元年から現在まで、一回も欠かすことなく続けてきた植樹祭には、子どもの頃に参加したことを思い出し、自分の子どもを連れて参加してくださった方々も多くいらっしゃいます。30年以上活動を続けているため、世代間交流の局面へと移り変わっているのです。
森は海の恋人運動は山に木を植えるだけでなく、同時に流域の子どもたちを海に招き、牡蠣養殖の現場を体験する環境教育活動も行っています。漁船に乗り込み養殖イカダへ移動し、人工的にエサを与えずとも生育する牡蠣を見てもらい、エサとなるプランクトンを採取し、これらが生育するためには森の存在が欠かせないことを伝えています。
そのような中、東日本大震災が起こりました。人間社会が構築してきたものは一瞬で藻屑と消え、沿岸部は見る影もなくなってしまいました。
自然環境の繋がりを伝える活動が順調に展開されていたところに起こった大災害です。自然環境も大きく変わるのではないかと心配する声も聞かれましたが、私たちが気を付けなければいけないのは人為的に手が加えられる災害復旧工事であったと言えます。
東日本大震災において最も自然環境に大きなインパクトがある災害復旧工事は「防潮堤」です。次なる津波への対応策として、被災沿岸部には巨大なコンクリートの壁が建設されています。防潮堤の建設は被災沿岸部だけの問題ではなく、海岸保全計画の名の元に日本沿岸部全て(崖地等を除く)に建設されていくことになります。宮城県の場合は河川堤防も巨大なものが次々と建設され、津波でかく乱された水辺は災害復旧工によって更に攪乱されました。舞根地区の場合は住民100%合意のもと防潮堤建設計画の白紙撤回を求め、防潮堤が無い(無堤)集落となることができました。東日本大震災による被災沿岸部のうち防潮堤建設は約600箇所。その中で防潮堤建設を拒否した地区は2か所のみ。舞根地区と岩手県内では花露辺(けろべ)地区になります。舞根地区の場合は住民間の話し合いの結果、風土を守ることで決しました。
一方で、震災で新たに生まれたものもありました。塩性の湿地です。気仙沼市舞根(もうね)地区には、1940年代まで干潟や塩性湿地が存在していました。戦後の食糧難を回避するために農地として埋め立てられたものの、数年で耕作放棄地となっていましたが、その場所が再び塩性湿地となったのです。東日本大震災が沿岸部に与えた影響は津波のほか地盤の沈降が大きく作用しています。気仙沼市では平均70cmの沈降が確認されています。もともと干潟であった場所が人為的に乱された後、自然災害の力で干潟の姿に戻ったのでした。震災直後、沿岸部には多くの塩性湿地が誕生しましたが、その殆どが埋め立てられ、原型をとどめているのは舞根地区の塩性湿地のみです。この湿地ではアサリの稚貝やアミ類が湧き豊かな自然環境が回復しつつありました。NPO法人森は海の恋人では研究者の方々と協働で震災後の自然環境を調査し、湿地という環境の豊かさを保護・保全するべく活動を展開することとしました。しかし、湿地保全活動は困難を極めました。湿地化した耕作放棄地の地権者は行政の指導のもと埋め立てを希望し始めたのです。宮城県の場合は、地権者が農地として使用せずとも、地目が農地であれば災害復旧工事として国費を活用し埋立てをする方針だったのです。
湿地保全計画が行き詰まり、ある夜、父に相談することになりました。父は、「その湿地は豊かな自然環境なのか?」とだけ問いました。私は自然環境調査のデータを見せながら、湿地内の生物の回復状況を説明すると父は理解してくれました。そして、塩性湿地となっている耕作放棄地を地権者と交渉し、個人の資産で買い取る方針を示してくれたのです。震災で牡蠣養殖施設や船等を失っている状況での判断に、私はただ頭を下げるだけの時間を過ごしました。
地権者交渉はスムーズに進み約12,000平米の耕作放棄地を買い取り、行政に対して埋め立て不要を申し出ることで塩性湿地の保全活動を始めることができたのです。
舞根地区の塩生湿地は西舞根川に隣接しています。湿地と西舞根川は直径約50㎝の排水口でのみ繋がっており湿地との通水が良いとは言えない状況で、また、河川護岸の災害復旧工事も行われようとしていました。河川護岸が新たに築かれてしまうと湿地との通水も遮断される恐れがありました。そこで、通水性を良くし、塩性湿地がより生物多様性度の高い空間となることを期待し、西舞根川の災害復旧工事の事業主である気仙沼市と話し合いが続きました。結果として、河川護岸の一部開削することが決まりました。絶滅危惧種であるニホンウナギの生息地であること、周囲の地権者の同意が全て取れていることが決定打となり、国内で初めて災害復旧工事として河川護岸の一部開削工事が実施されました。
これは非常に稀な例ではありますが、環境保護・保全の事例として大きな一歩となったと考えています。
東日本大震災の衝撃のあと、防潮堤建設を防ぎ、新生した塩性湿地を守ることで舞根地区の自然環境はある程度の保全が可能になりました。しかしこうしたことを一地域のものに留めておくわけにはいきません。
現在、私たちは新たな活動として舞根地区にある河川の流域全体を保全する活動に取り組んでいます。これは、森から海までをひと繋がりの生態系と捉え、それを保全し、また体験できるフィールドとして発信していく事業です。いわば「森は海の恋人」という活動の理念を体感できる街づくりとなります。フィールドを整えるためには、人の手が入ります。そうしたことで自然がどのように変化するのか、あるいは変化しないのかを調査しつつ、その方向性を見極めながら進めていきたいと考えています。
カムチャッカ半島沖で、2025年7月30日にマグニチュード8.7の大規模な地震が発生しました。
このカムチャッカ地震による津波は高さ約40㎝と小規模でしたが、10分に1回程度の頻度で気仙沼湾にも来襲しました。津波は水塊の移動ですので水深に関係なく海が動きます。
イカダを固定するアンカーロープが切れてしまい、また、イカダにぶら下がっていた牡蠣のロープが絡み合い水揚げ前のカキやホタテが落下してしまうのです。
漁師は自然に生かされる商売ですので、何かを恨むような気持は起こりません。少し残念な気持ちにはなりますが、またやり直せば良いのです。自然環境さえ整っていれば何度でもやり直せるのです。
森は海の恋人の活動は、森づくり活動、環境教育活動、自然環境保全活動(環境調査)の三つの活動が軸となり、エビデンスを基に豊かな自然環境を後世に残し伝えること、また、今後は自然を守る活動を行うほどに地域が経済的にも潤う仕組みを構築し、実践して参ります。皆さま、どうぞ足をお運びください。