南海トラフ地震臨時情報は適切だったのか?-2024年の日向灘地震(M7.1)が投げかけた課題


東京大学大学院工学系研究科 教授

印刷用ページ


想定震源域内(科学的に想定される最大規模の南海トラフ地震の想定震源域)における
プレート境界部(赤枠)と、監視領域(想定震源域内およびその海溝軸外側約50 km:黄枠)。
本図は、気象庁HPの図に加筆。黄色の星印は、8月8日に発生した地震の震源を示す。

 南海トラフ巨大地震の断層域内でマグニチュード7以上の地震が発生した場合、「南海トラフ地震臨時情報(巨大地震注意)」が発表されることになっている。2024年8月8日に九州・日向灘で発生した地震はマグニチュード7.1であったため、この情報が1週間にわたり発表された。この出来事はニュースで大きく取り上げられ、経済への影響や、地震発生への不安が広がった。結果として、大きな地震の発生には至らなかったものの、社会への影響は甚大であり、地震を研究している者として改めて社会との関わり方を考えさせられる出来事であった。

 この注意報の発表については、専門家の間でも疑問の声が上がった。その理由として、今回の地震は、短い周期で地震が発生することで知られる日向灘で発生していること、さらに南海トラフ巨大地震の断層域(滑り領域)の南西端には含まれるものの、巨大地震の震源域(地震発生地点)とは距離があると考えられていたためである。このため専門家の間では、今回の地震はそれほど危機的な状況ではないとの見方が強く、筆者自身も同様の見解を持っていた(もっとも、結果が判明した後では何とでも言えるのだが。)。

 南海トラフ地震臨時情報の発表前には専門家による検討が行われるものの、既存のルール(基準)を変更することは難しく、結果的に「南海トラフ地震臨時情報」が発表された。仮に今回の地震で注意報を発表せず、その後に大規模な地震が発生していた場合、発表を見送ったことへの批判は免れなかっただろう。現在の日本社会においては、不確定な情報を公表することが難しく、結果として杓子定規な対応にならざるを得ない状況にあるように思える。

 この問題の難しさは、注意報の発表基準の設定と、社会受容性の2点にある。まず、注意報の発表基準の設定の難しさについて述べる。南海トラフ地震臨時情報は、マグニチュード7以上という基準(正確にはゆっくり滑りにも注目する)で発表されるが、このルールが必ずしも適切とは限らないことには多くの専門家が同意するだろう。例えば、巨大地震の震源域の一つとされ、歪みが蓄積されていることが知られている場所(例えば紀伊半島周辺)でマグニチュード7の地震が発生した場合は、臨時情報を発令する必要があると考えられる。一方で、マグニチュードが小さくても、巨大地震の震源域に影響を及ぼす場合には、より強い警戒が必要となる可能性がある。過去の研究により、大規模な地震が発生しやすい震源域はある程度特定されてきており、将来的には「特定の地域でマグニチュード○以上の地震が発生した場合に注意報や警報を発令する」といった柔軟な基準が導入される可能性がある。それにより、より精度の高い注意報の発令が可能になると考えられる。

 さらに、単にマグニチュードだけで判断するのではなく、他のモニタリングデータの活用も重要になる。実際、地震に関係する異常な現象が発生していないかを専門家が評価する際には、様々な種類のモニタリングデータが参照される。しかし、多種類の時系列データを統合的に解釈して判断することは人間にとって容易ではない。そこで、多様なデータを扱うことに優れた機械学習の活用が期待される。現在のところ、機械学習を用いた手法は完全に確立されているわけではないが、筆者の研究室の学生による研究では、複数のモニタリングデータを機械学習に入力することで、70%以上の確率で阿蘇山の噴火を予測できることが示された。さらに、この手法では、それぞれのモニタリングデータのどのような変化が噴火予測に寄与しているかを明確にすることも可能であり、機械学習が単なる「ブラックボックス」ではないことを示している。火山噴火と地震のメカニズムには違いがあるものの、発生予測に用いるモニタリングデータには共通点が多く、筆者の研究室でも地震予測に機械学習の活用を進めつつある。

 最後に、注意報の社会受容性の問題についてである。地震情報は人命や経済に直結するため、高い精度が求められ、不確実性を伴う情報の公表が難しい状況にある。特に近年は、失敗を許容しない風潮が強まっているように感じられる。この傾向は、地震情報に限らず社会全体にも広がっており、SNSの発展により情報発信の手段は増えたものの、地震注意報などの責任を伴う情報の公表に対するハードルは一層高くなっているように感じる。さらに、失敗を恐れることで保守的な判断が増えることも問題である。これは地震の予測以外にも言えることで、挑戦的な取り組みが評価されず、リスクを取らない選択が優先されるようになれば、社会全体の発展を妨げることにもなりかねない。

 地震学は、純粋なサイエンスとしての側面に加え、社会への貢献という役割も担っている。近年の観測技術の発展、データの蓄積により、10年前とは比べものにならないほど多くの知見が得られている。これらを社会に還元するには、科学者による努力とともに、社会の側も科学的知見を受け入れる姿勢を持つことが重要である。その相互作用により、より挑戦的な予測手法が開発され、地震予測に関する情報発信も促進されると思われる。