米国の中東撤退 ― シェール革命と中東地政学 ―
~中東の勢力図は米ロの介入により激しく変化した~
橋爪 吉博
日本エネルギー経済研究所 石油情報センター
(「エネルギーレビュー vol.529 2025年2月号」より転載:2025.01.20)
エネルギードミナンスの確立
シェール革命による米国の最大産油国化(2014年)・石油純輸出国化(19年)は、2000年代半ばまで石油需要(約1600万バレル/日)の半分を中東等からの輸入に依存していた米国のエネルギー自立を達成し、「エネルギードミナンス」(支配・優位)を達成したといわれた。天然ガスも、世界最大産ガス国・LNG輸出国となった。今回は、シェール革命の影響としての米国経済の好調・中東石油への依存脱却に伴う米軍の中東撤退、そして、イランの中東進出・米サウジ関係の悪化、さらに最近のシリア・アサド政権崩壊にもつながる中東の地政学との関連について説明する。
石油の純輸出国化は、国富の海外流出を防止するとともに、米国の国際収支を劇的に改善し、シェールガス増産による天然ガスの国内価格低下は、米国内エネルギーコストを低下させ、リーマンショック後の2010年代半ばには「製造業ルネッサンス」といわれる好景気を実現した。IEAも、米国のエネルギーコストは、欧州の三分の二、日本の二分の一に相当すると試算した(WEO2013年)。オバマ政権が国内経済対策を放置し外交面でのレガシーつくりに集中しても、第一次トランプ政権が支離滅裂な経済政策を打ち出しても、米国経済は絶好調、米国だけの「独り勝ち」状態は続いた。シェール革命のおかげである。
米国とイラク戦争
他方、21世紀に入って、米国の中東政策は迷走を続けた。
2001年9月11日のイスラム原理主義組織「アルカイダ」による同時多発テロ、それに続くアフガニスタン戦争、そしてイラク戦争。そもそも、アルカイダ自体が、アフガン戦争(1979~89年)中、対ソ連ゲリラとして、米国が資金・兵器援助によって成長させた「怪物」であり、湾岸戦争(1991年)におけるイスラムの聖地サウジアラビアへの米軍等異教徒兵士の駐留に対する報復として、米国に同時多発的に攻撃したものだ。アフガニスタン戦争は、アフガニスタン政府としてアルカイダを国内で保護したものであるから、宣戦したことはまだ理解できる。
理解できないのは、イラク戦争(2003年3月~)だ。米国は、①イスラム過激派との関係、②核兵器等大量破壊兵器の保有を理由として開戦したが、イラクは、地域随一の世俗国家で原理主義者とは最も縁遠い国であり、大量破壊兵器を持っている「フリ」をしたことがサダム・フセイン政権の墓穴を掘ったともいえる。湾岸戦争では、戦後のパワーバランス維持のため、フセイン体制を国内に封じ込め温存させたが、今回は、戦後体制を考慮せずに打倒してしまった。その後、フセインは逮捕(2003年12月)、処刑された(2006年12月)。イラク民衆に歓迎されるはずの米軍のバグダッド進駐も歓迎されず、しかも、イラクでは「民主選挙」(2005年1月)の結果、人口分布で多数派であるシーア派政権が成立し、イランの友好国に変わった。いつの間にか、各地で頻発する泥沼の内戦に引きずり込まれ、イラク国内での駐留はいまだ続いている。米国は、イラク戦争で物心ともに疲弊してしまった。それを救ったのも、シェール革命だ。中東石油への依存解消で、米国内の中東への関心は低下、中東における軍事的プレゼンスの必要性低下によって、中東からの撤退を加速させた。
また、一部に、イラク戦争は、米国によるイラク国内の石油利権獲得が真の目的であったとする見方もあるが、開戦時の戦後戦略から見ても、大規模戦闘終了後の利権獲得に向けた具体的な動きは見られず、実際にも、駐留中にもかかわらず米国勢は利権が獲得できなかったことから、それはあり得ないだろう。イラク戦争は、「ネオコン」(新保守派)主導の無意味かつ正義に反する戦争であったというしかない。
~中東の勢力図は米ロの介入により激しく変化した~
「シーア派の三日月」
考えてみると、イランも奇妙な国だ。1978年秋、労働者・学生による反独裁王政ストライキに始まる民主化革命をいつの間にか、イスラム教シーア派聖職者が乗っ取り、パリ亡命中の宗教指導者ホメイニ師が帰国し、パーレビ国王(シャー)を追放して、復古・宗教革命を達成してしまった。選挙で選ばれた大統領さえも、宗教上の最高指導者に服するという「イスラム法学者による統治」(ベラヤティファギーフ)の理念に基づく、時代が中世に逆戻りしたような宗教国家である。シーア派は、イスラム教の少数派(約2割)であり、多数派であるスンニ派とは、教義に大きな差はないものの、イスラム教指導者(イマーム)の資格として、預言者ムハンマドの血統を重視するといわれている。イスラム革命以来、イスラム教の盟主を自認するサウジアラビアとは、事あるごとに地域大国として対立を続けてきた。わが国では、正倉院時代から、シルクードを通じた交易があったからか、「瑠璃夜光杯」・「胡舞」といった古のペルシャ文化への憧憬からか、イラン・シンパは多いようだ。イラン側も親日国といわれるが、本当のところはわからない。親日国が、北朝鮮とともに核開発・ミサイル開発を進めるだろうか。
そのイラン、革命以来半世紀、①国内的にはベラヤティファギーフの統治体制維持、②対外的にはシーア派革命の「輸出」、を二大国是としてきた感がある。そのためには、核武装も選択肢になるのだろう。イラク戦争における米国の失策によって、イランは、フセイン時代の敵対国であるイラクを友好国とすることが出来た。そして、イラクを通じて、シーア派の分派であるアラウィ派が支配するシリアへの通路を確保するとともに、さらに、レバノンのシーア派武装組織「ヒズボラ」への支援ルートをも得ることが出来た。アラウィ派は、シリア人口の10%程度と言われるが、同様に50年にわたりシリアを独裁支配したアサド大統領父子の出身宗派であり、政府高官・軍幹部に数多く登用されてきた。ヒズボラは、レバノン政府軍をしのぐ軍事力を有し、イランの代理勢力として、イスラエルをけん制し続けてきた。レバノン・シリア・イラク・イランをつなぐ弧は、ペルシャ湾を隔てたイエメンの反政府シーア派武装組織「フーシ」を含めて、「シーア派の三日月」とよばれる。
このシーア派の三日月に包囲されたのは、サウジ・UAE(アラブ首長国連邦)等の王政湾岸産油国である。サウジの安全保障環境は、友好国米国の失策により、大きく悪化してしまった。さらに、オバマ政権による将来のイラン核武装を容認する核合意(2015年7月)、イランによるサウジ石油出荷施設へのミサイル・ドローン攻撃(2019年10月)へのトランプ政権の報復回避など、最近のサウジ・米国関係の悪化の背景には、こうした米国へのフラストレーション・不信感の積み重ねが存在する。
シリアのアサド政権崩壊
しかし、国際政治の変化は国際環境を変える。
2024年12月9日、シリアのバッシャール・アサド大統領は、反体制派による首都ダマスカス制圧を受け、ロシアの勧めでモスクワに亡命した。父ハーフェズ・アサド大統領から受け継いだ、アラブ民族主義に基づく独裁国家も約50年で最後を迎えた。2015年にも、反体制派の攻撃で危機に陥ったが、ロシア空軍の介入・空襲で撃退、回復した。
しかし、今回は、そのロシアもウクライナ戦争激化に伴い武力介入できず、イランもその代理勢力ヒズボラもイスラエルとの紛争激化で手が出せなかった。反体制派が政権を引き継いだが、その前身はアルカイダである。ただ、今回、シーア派の三日月の東端が欠けたことは確かだ。イラン、サウジなど産油国への影響が注目される。