脱炭素の誤りを正すとする英国スナクの歴史的演説
杉山 大志
キヤノングローバル戦略研究所 研究主幹
英国のリシ・スナク首相が英国の脱炭素政策(ネットゼロという)には誤りがあったので方針を転換すると演説して国内外のメディアは大騒ぎになっている。
演説動画(政府公式チャンネル)
https://www.youtube.com/watch?v=bQ79LlrQcYc
報道記事:
- The Times, 21 September 2023
- The Wall Street Journal, 22 September 2023
- Daily Mail, 22 September 2023
- The Daily Telegraph, 21 September 2023
- The Sun, 22 September 2023
日本国内の報道では、ガソリン自動車・ディーゼル車などの内燃機関自動車の販売禁止期限を2030年から2035年に延期したことが専ら注目された。
だがこの演説はもっと重要な内容を含んでいる。具体的な政策について述べただけではなく、首相がこれまでの英国政府の誤りを指摘し、今後の方針を明確に述べたからだ。
強制ではネットゼロは実現しない
英国のネットゼロ政策はこれまで、強制的なものが多かった。禁止、規制、課税のオンパレードだ。内燃機関自動車の禁止、ガスボイラーの禁止、住宅断熱義務付けといった具合だ。スナク首相は、 “新しいアプローチ “では、そのようなことはしない、と言った。国民に負担を押し付けることでは、国民の同意が得られなくなり、ネットゼロの目標自体が拒否される結果になる危険がある、とした。
その代わりに、スナク首相は人々に選択の自由を与え、「強制ではなく同意が必要だ」と述べた。内燃機関自動車禁止の期限の延期に加えて、ガスボイラー禁止の期限も延期する。住宅の断熱改修義務付けの計画も変更する。ゴミの分別細分化はしない。飛行機への税も食肉への税も実施しない、とした。
歴代の政府はコストを誤魔化していた
この演説でもう1つ重要だった点は、保守党にせよ労働党にせよ、「歴代の英国政府はネットゼロのコストについて国民に正直でなかった」、とスナク首相が指摘したことだ。コストについての議論や精査が欠如していた、とも言った。これらをすべて変え、今後は、難渋な言葉で誤魔化すのではなく、正直に説明する、とした。
特に議会は、炭素排出の総量(炭素予算carbon budgetと呼ばれる)を承認する際には、それを達成するための計画を同時に精査すべきだ、とした。
ただし、具体的な政策についてはまだ踏み込みが足りない。洋上風力は推進し送電線は建設するとしている。ガスボイラーから電気式暖房への転換には手厚い補助金を出すとしている。内燃機関自動車の禁止なども期限が5年だけ延期されただけである。ただし、今後、本当に首相の言うように国民へのコストを明らかにするプロセスが始まるならば、このような政策も妥当性が吟味されるようになるだろう。
ネットゼロ目標は堅持する
スナク首相は、2050年のネットゼロ目標など、発表済みの英国の数値目標は堅持して変えない、としている。だが、強制的手段を採らないという方針と、このことは整合性が無いのではないか、という批判が当然でてくる。また、政府が方針をたびたび変更し一貫性を欠くことは不適切だという批判もある。このスピーチにおける質問にもあったし、メディアでもそのような意見が多く報道された。
これに対してスナク首相は、「ネットゼロを達成するためにこそ、国民の同意が必要であり、そのためには、国民が負担するコストに正直になり、強制を避けねばならない」、と繰り返し述べている。
今後の見通し
ネットゼロは、ボリス・ジョンソンなどの歴代の保守党政権も推進してきた政策であるため、スナク首相が提唱した方針転換には保守党内部からも反発がある。
ただし英国では、従前のようにネットゼロへの反論が異端視される状態では無くなっている。多くの議員が、ネットゼロのコストについて、公然と問題視する意見を言うようになった。保守党は本件については分裂状態になっている。
しかし保守党の現状はといえば、支持率が低迷しており、遅くとも2025年1月には実施される予定の総選挙を前にして、野党の労働党に大きく水をあけられている。
すでに7%を超えるインフレで生活危機に陥った国民からは怨嗟の声が上がっており、このタイミングでネットゼロのために数千ポンドもの負担を各家庭に課するという公約を掲げて選挙に挑むべきではない、とスナク首相は判断したようだ。
英国においてネットゼロのコストの精査が始まり、これまでの”野心的”な政策が、スナク首相の言う現実的でバランスの取れた(practical and proportional)政策に見直されてゆくとすれば、それは日本などの海外にも影響を与えてゆくことになるだろう。