空襲下のウクライナ・キーウを取材した


ジャーナリスト

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 先月(2023年5月)11日~18日の1週間、ウクライナのキーウ、リビウに取材のため行って来た。ロシア軍による空襲が続き、依然として日本外務省による退避勧告が出ているが、国際問題、特にヨーロッパを主なテーマとしているジャーナリストを名乗る以上、世界的なニュースであるロシアによるウクライナ侵略を取材しないわけにはいかない。戦争の最前線に行って取材するほどの度胸はないが、少なくともキーウには行かねば、という思いだった。
 取材の結果はいくつかの媒体に発表することにしているが、ここでは取材にまつわる余談を書こうと思う。ウクライナ戦争に関する本質的な話ではないし、環境、エネルギー問題にも一切関係のない内容であることをお断りしておきたい。

あやうく乗り遅れ

 主に書きたいのは、どんな交通手段でウクライナに入国したか、道中がどうだったか、町の様子はどうだったのか、といった体験談である。こういった話は、取材に至るまでの準備段階の話だから、事細かに書くのは記者の矜持に悖るのだろう。大手メディアの記者が報じることはまずない。
 ただ、ウクライナに取材に行ったと言うと、危なくなかったのか、という質問は当然出るにしても、きまって聞かれるのは、どうやってウクライナに入国したのか、入国の手続きはどうだったのか、ホテルはちゃんと営業しているのか、と言った質問である。意外とこの手の情報にも関心があるのだろう。とすれば誰かが書き残しておくのも、意味があることかもしれない。
 侵略開始以来、空路は使えなくなっているので、海路は別として、唯一の交通手段は陸路の鉄道、バス、タクシーである。ポーランドーウクライナ国境からキーウまでは大体600㎞あり、タクシーをチャーターして移動するのは相当資金に余裕がないと無理だから、現実的には鉄道かバスだが、ここでは私が実際に乗った電車の事情について書く。
 5月9日21:50発のポーランド航空で成田を出発。10日5:40ワルシャワに到着した。ロシア上空を飛べないため南回り、14時間50分の飛行時間で、戦争前の11時間35分に比べると3時間以上長い。
 同日中にキーウ行の列車に乗り継げるのだが、飛行機便が遅れる可能性も考えて、ワルシャワで一泊した。鉄道の切符は日本でネットを通じて購入し、QRコード付きの「Boarding Document」を印刷しておいた。
 翌日11日、12:19発の列車に乗ろうとワルシャワ中央駅に行ったのだが、電光掲示板の時刻表に途中乗換駅のヘウム行の列車がない。おかしいと思って切符をよく見ると、Warszawa Wsch.と記載してある。中央駅はWarszawa Centralnyだから、これは明らかに中央駅とは別の駅だ。
 慌てて近くにいる人に訪ねて回ったが、一人は英語圏からの観光客で「私もワルシャワは初めて。旅行者だよ」と言われる。ポーランド人の夫婦は全く英語が通じない。駅構内にある何かのブースに入って聞くと、たまたまその店にいた眼鏡をかけた30代と思われる男性が切符を見て流暢な英語で、「これは東駅だ」と教えてくれた。
 彼は親切にも切符の自動販売機にまで私を連れて行き、画面を操って「鉄道で東駅に行くなら、次の便は11:49発で料金は・・・」などと説明してくれた。私は「タクシーではどうだろう」というと、近くに止まっていたタクシーを指さして「あの会社なら安心だ」という。
 念のために1時間早く来ていたのがよかった。まだ時間に余裕はあったのだが、万が一のことを考えてタクシーで東駅に向かうことにした。
 別れ際にポーランド語で「ジェンクイエ(ありがとう)」というと(私の知っているポーランド語はあと「こんにちは」のジェンドブルィだけ)、英語で「ウクライナに行くのか?私はウクライナ人だよ」という答えが返ってきた。
 まったく感じのいい人だった。旅の初っ端から躓くところを救ってくれた。

寝台列車でキーウへ

 東駅に着くとヘウム行の列車は確かにあった。列車は定刻通り出発した。旅客は座席の半分ほどで、線路や駅も改修が進んでいて滑らかな走行である。
 15:01にウクライナ国境に20キロほどのヘウムにつくと、隣のプラットホームにはキーウ行の青と黄色に塗り分けられた列車が止まっている(写真1)。出発は16:42なのでまだ時間がある。ほとんどが女性と子供というウクライナ人たちは、駅前広場に隣接したスーパーマーケットで食材の買い出しをしている。私も夕食になるパンや水を買った。


写真1:キーウに向かう夜行寝台列車(2023年5月11日、ヘウムで)

 列車に乗り込む際にQRコードが印字された切符を示すと、そこに女性の車掌が読み取り機で光を当てて確認する。
 列車内に入ると、1つのコンパートメント(仕切り客室)内には向かい合った2段ベッドが並べられている。カーキ色の布団にまくら、それとシーツが2枚、枕カバー1枚、青いタオル1枚がビニールに包まれ、上段に2組ずつ置かれていた。私の席は下段だった(写真2)。


写真2:寝台車の内部。2段ベッドが両脇に並ぶ(2023年5月11日)

 適当に寝床を整えて腰かけ、パソコンを広げる。出発してしばらくしても客が乗ってこないので、このコンパートメントはどうやら私一人らしい。
 小太りの女性の車掌が来て、こちらに来いという。ついていくとトイレの扉を開け、使ったトイレットペーパーは便器に流すな、備え付けの籠の中に入れろ、と手ぶりで指示する。ソ連時代とちっとも変っていない。
 30分ほど走って停車すると、ポーランド側の国境警備隊員が入ってきた。小柄な目がクリっとした女性兵士でパスポートを見ると、隣の男の兵士に何か話している。ビザが何とか言っているので、恐らくウクライナ入国に日本人はビザはいらないことを確認したのだろう。あっさりスタンプを押すと次の部屋へと移っていった。
 列車はしばらくまた走ると湿地帯のようなところを通り、やがてウクライナ国旗を描いた石の標識や、土嚢を積んだ塹壕が視界に入るとすぐに消えた。ウクライナ領内に入ったことが知れた。線路は整備されていないらしく、揺れが激しくなった。沿線の建物や電信柱などは見るからにみすぼらしくなる。
 20:00頃、列車は停止し、今度はウクライナ国境警備隊の小柄な男性兵士が入ってきてパスポートを回収した。窓から外を見るとパスポートの束を抱えた兵士が歩いていくのが見える。40分ほどして帰って来て、私のパスポートを差し出して「Good Luck!」と一言。「幸運を祈るか、なんだか意味深長だな」などと考え、少し不安になる。
 列車はがたがた前後左右に揺れるが、順調に一路キーウを目指して走り始めたようだった。ベッドに横たわるとそのまま寝てしまった。
 突然、部屋の扉が開いた。廊下の明かりが差し込んでくる。不意を突かれて起き上がると、どうやら途中から乗り込んで来た客らしい。時間は23:00だった。
 入ってきた老人は私に握手を求め何か話しかけてきたが、何を言っているのか見当がつかない。中年の男女が老人と抱擁し名残を惜しんでいるようだった。中年男女は去っていったが、もう一人の中年男性が残り、ベッドつくりをするなど老人の世話としている。老人が下段、上段がこの中年男性が寝た。
 熟睡はできず、外が白んできたと思って時計を見ると4:40だった。沿線の駅には時々人影を見るようになる。建物も増えるが、相変わらずみすぼらしい。6:30、列車は定刻通り、キーウ駅に到着した。キーウ駅の駅舎は天井が高く、巨大なシャンデリアが吊るされているなかなか壮麗な建物だった。すでに大勢の人でごった返していた(写真3)。


写真3:キーウ駅のシャンデリア(2023年5月12日)

空襲に動じない市民

 町の中は思いのほか平穏だった。
 昼間でも夜間でも、キーウの町には大勢の人が出ていたし、店も開いていた(写真4)。鉄道、地下鉄、バスなど公共交通機関は時間通りに動いている。爆撃で破壊された建物や、窓ガラスが割れ、弾痕が残るビルなども市内にあるのだが、散在しているので、そうと指摘されないと気づかない(写真5)。


写真4:キーウ市中心部の独立広場で催しを見る人々(2023年5月14日)


写真5:市内で見た爆撃された建物(2023年5月15日)

 ただ、これは表面的な観察で、大戦争をしている国が平時のはずがない。それを痛感するのは、町の至る所で見られる戦意高揚のポスターや、戦死者の写真である。
 市中心部の聖ミハイル黄金ドーム修道院の壁には、2014年3月のロシアによるクリミア併合以降、ロシアとの戦闘で戦死したウクライナ兵士の肖像が掲示されている。今年3月21日、岸田首相がこの「戦没者慰霊の壁」に献花した(写真6)。


写真6:戦没者慰霊の壁(2023年5月12日)

 数十メートル続く壁の長さこそ、戦争の悲劇を端的に物語っている。これがこれからも伸びていくことを考えると、暗澹たる思いにとらわれる。
 また一人一人の現状をちょっと聞いただけでも、個々人の運命が戦争により大きく狂わされたことが容易にわかる。
 現地で助手を務めてくれたオレクシ・オトゥキダッチさん(25)は歴史学部の学生だが、全学年で約500人いる学生のうち5人が戦死した。妻はドネツク地方に住むいとこを亡くした。民間人だったが、爆撃で死亡した、という。「知り合いの誰かが軍に入隊し、親せきの誰かが、住んでいる町や自宅を破壊されている」と話す。
 キーウにいて直接戦争の恐怖を感じるのは空襲である。ほぼ連日警報が鳴り、ミサイル、ドローン攻撃があった。
 私は滞在中、日本で予約サイトを通じて予約してあった2軒のホテルに泊まったが、両方とも地下駐車場の一角にいすやベッドを並べシェルターにしていた(写真7)。空襲警報のサイレンが町に流れるのと同時に、ホテルでもウクライナ語と英語の館内放送が流れ、シェルターに避難することを呼び掛ける。


写真7:ホテル地下駐車場に設置されたシェルター(2023年5月16日)

 攻撃を受けるまで、30分ほどの余裕があるので、いきなり頭の上から爆弾が降ってくる事態はまずない。落ち着いて避難し、シェルターに入ってしまえば、生命の危険はまずないだろう、という安心感はあった。
 ただ、滞在中、ほぼ毎日空襲警報でたたき起こされ、夜間、未明にシェルターに避難するのは辛かった。
 特に5月15日夜から16日朝にかけての爆撃は激しく、2:20に警報が鳴り、朝6:00ころまでシェルターに止まった。いすを並べて横たわり、仮眠を取ってしのいだ。
 16日午前11時、オトゥキダッチさんに会うと、「未明の空襲は激しかった。爆音で窓ガラスがびりびり震えていた」とスマホに録音したという空襲の爆発音を聞かせてくれた。シェルターに入れば、外の音は聞こえず、不覚にも大規模な空襲があったことをその時初めて知った。
 キーウ市民も空襲慣れしている面はあり、15日20:00、パラツ(パレス)・ウクライナ地下鉄駅の地上出入口付近にいたら、空襲警報が鳴り響いた。しかし、周囲では人々は何事もなかったかのように歩いたり、軽食スタンドで食事をとったりしていた。

ITなどに潜在力

 市民に一定の安心感を与えているのは、ウクライナ軍の防空システムが次第に機能を発揮し始めたことにもよる。ウクライナ外務省でインタビューしたオレグ・ニコレンコ同省報道官(36)によれば、「ロシア軍のミサイル、ドローンの95%の迎撃に成功している」という。
 当地の日本外交筋によると、ウクライナ軍は統計処理を使って空襲のパターンを分析し、警報や迎撃に役立てている。戦争前からウクライナのITベンチャー企業は注目されていたが、そうしたIT人材が戦争においても柔軟な対応をするのに貢献している。
 外交筋は「当初、(IT先進国として評価されている)エストニアから技術協力を得たが、国民全員が入るITプラットフォーム(platform)を整備し、納税や社会保障給付が全てそれを通じてできるようになった」と「IT先進国」としてのウクライナを評価する。
 外交筋は、「ウクライナ政府からの、日本政府はどう考えているのか、何をしてくれるのか、といった問い合わせもSNSを通じて来る。一日中スマートフォンとにらめっこです」と苦笑いした。
 確かに、鉄道はネットで購入し、スマートフォンにQRコードを表示させるようにしておけば、スマホで乗車できる。小さな軽食スタンドでもクレジットカードが使えるし、地下鉄も改札口にカードを読み取る機械があり、カードを触れれば構内に入ることができる(写真8)。


写真8:クレジットカードで入場できる地下鉄(2023年5月16日)

 デジタル化は日本よりもむしろ進んでいるのだろう、というのが滞在しての実感である。
 外交筋はまた、「戦況が落ち着けば、大規模な復興資金が投下される。第2次世界大戦後最大の復興ブームが来る」とウクライナの可能性を強調した。

 帰途はキーウからはリビウを経由してポーランドのプシェミシルで一泊し、クラクフに出た。
 リビウまで、また夜行列車に乗った。17日23:16発で、今度は2段ベッドの上段だった。発車したと思ったら、遠くから空襲警報のサイレンが聞こえてきた。列車が攻撃されるのではないか、という不安がよぎったが、列車がキーウの町を離れるにつれて、ようやく緊張感から解放された感覚の方が勝ってきて、いつの間にか眠りに落ちてしまった。