ドイツの洪水と下院総選挙


ジャーナリスト

印刷用ページ

 7月中旬、ドイツ西部やベルギーを襲った豪雨による洪水のために、計200人余りの死者が出た。ドイツは9月26日に連邦議会(下院)総選挙が行われるが、この洪水の原因や対応をめぐる議論が、選挙に大きな影響を与えている。素直に考えれば、気候変動問題を中心に環境問題の解決を訴えてきた政党「緑の党」が支持を増やしそうだが、そうなっていないところに、状況の複雑さがある。


イメージ画像
Animaflora/Ⓒ iStock

 ドイツの気候は、冬場は日照時間が短く曇りの日が多いので、暗く寒いのが辛いが、1年を通して比較的温和で、集中豪雨のために洪水が起き多数の死者が出るような事態はかつてはほとんどなかった。今回の洪水は、1962年、300人余りが死亡したハンブルクの高潮以来の大規模な自然災害だという(ちなみに当時のハンブルク市内相だった、後のドイツ首相ヘルムート・シュミットが、権限がないのにもかかわらず北大西洋条約機構(NATO)軍に災害派遣を要請した。その決断の的確さが危機管理のお手本として、ドイツではよく言及される)。
 ドイツ・ベルリンの特派員をしている1997年夏、ドイツとポーランドの国境を流れるオーデル川が氾濫を起こし、現場に取材に行ったことがある。洪水と言っても河川の水位が徐々に上がり、やがて堤防の決壊が起きて家屋や畑が水に浸かるという風で、避難する時間は十分にあり、この時の洪水でドイツでは死者はほとんど出なかったと記憶する。
 今回の洪水では、最も被害の大きなラインラント・プファルツ州で150人超、ノルトライン・ヴェストファーレン州で47人の死者が出た。最も被害が大きかったのは、両州の境界近くを流れ、ライン川に注ぐアール川流域で、市街地に津波のような勢いで泥水が流れ、逃げ遅れる人が続出したという。
 ただ、日本のように山間部に降った豪雨で短時間に土石流が発生し、ほとんど避難する時間もなかった、という状況ではなく、アール川はオーデル川よりは小規模な河川だが、水位は時間をかけて上昇しており、きちんとした警報、避難態勢があればこれほどの惨事にはならなかったとの見方が強い。
 ドイツで災害防止を担当するのは州、郡、市町村と言った地方自治体であり、「連邦(国)住民保護・災害支援庁」(BBK)が情報提供や支援に当たる。
 このBBKのもとに「共同通報・状況センター」(GMLZ)という組織があり、毎日ドイツ気象庁などの状況を総合して、災害の状況を内務省に伝える。
 洪水があった前日、7月13日午後、GMLZは気象庁からの情報を下に、通常2、3か月間の降雨量に当たる1平方メートル当たり最大200リットル降る見通しであることを伝えた。1時間に30~50ミリ(1平方メートル当たり30~50リットル)で「激しい雨」だから、200ミリは一回の降雨量にしてもかなりの豪雨と言うことになるが、大規模な増水にはならない、と評価した。GMLZがそれを変えたのは、実際に被害が出た15日未明であり、広範囲での救援活動を必要としていると認めた。
 シュピーゲル誌によると、地元自治体のラインラント・プファルツ州で災害の評価、予測をする責任は州政府環境局にあるが、同局は14日、洪水が起きることを警告していた。しかし、その下のレベルの行政当局がこの警告を軽視した。一番責任が問われているのは、アール川流域のアーヴァイラー郡の郡長である。彼が川の沿岸住民に避難命令を出したのは、ようやく同日午後11時を過ぎてからだった。そのとき、アール川の水位はすでに7メートルに達していた。通常は50センチ、1世紀に一度と言われた2016年の水位上昇の際も3.71メートルだったから、異常事態であったことが分かる。
 シュピーゲル誌の記事は時系列的に追っているが、州環境局は15分ごとに水位計の値、3時間ごとに水位の予想を発表していた。14日午後1時には水位は1.2メートル、同日夜には3.3メートルになると予想していたが、その後事態は急速に悪化し、午後3時26分、水位が5.26メートルになることを予想した。しかし、市町村の担当者達は、余りに急激な上昇なので警告を信じず、間違っていないかどうか州環境局に問い合わせたという。
 午後5時17分には広範囲の洪水予想が発表され、郡は危機対策会議を開いたが、ここで気象庁が降雨量は少なくなると予想したことを受けて、環境局が水位予想を4.06メートルに下げたことが伝えられた。危機対策会議にほっとした雰囲気が広がったという。この時が危機対応の分水嶺だったようで、その後水位の上昇を予測する警告が幾度か出されたが危機対策会議は状況に応じた対策を取るのを怠った。
 最悪の事態を想定して対応するのが危機管理の要諦と言われるが、同時に人間は最悪の事態を考えること嫌い、楽観的に予測する傾向がある、とも指摘される。このときの当事者達の対応は、典型的なケースだったように感じられる。
 事後、責任の押し付け合いが起きたが、ドイツ的と言える現象かもしれない。まずBBK長官が批判されたが、あくまでも避難命令など事態に対処するのは地元自治体、との立場を変えなかった。連邦内務省やノルトライン・ヴェストファーレン州内務省も、現地の郡や市町村レベルの自治体に責任があるという主張だった。アーヴァイラー郡の郡長は、「各当事者が最善を尽くし、住民への警告もその時々に行った。その後の展開は例外的な状況だった」と弁明した。
 話は飛ぶが、2010年7月に西部デュースブルクで行われた若者の祭り「ラブパレード」で、群衆が集中した結果、21人が圧死した事故を想起した。行政、警察、主催者などが記者会見を開き、口々に「我々には責任はない」と言い張るのを聞いて、ドイツ社会の「無責任の体系」を痛感したことがある。
 8月中旬になって 検察庁はアーヴァイラーの郡長に対し過失致死、傷害の疑いで捜査を開始した。デュースブルクの事故では結局、だれも刑事責任を問われず、ドイツのこの種の事件の責任の追求は一体どうなっているのだろう、と訝しかったことを思い出す。今回の洪水で刑事責任の追及はどうなるだろうか。
 そもそも、防災体制が、自然災害に不断にさらされている日本と比較して、相当、貧弱なのでは、という疑念も拭えない。例えば防災サイレンはアール川の沿岸自治体にほとんど設置されていなかったという。避難指示は川の両岸50メートル以内から避難するようにというものだったが、避難場所がきちんと指定され、避難訓練などが日常的に行われていたのかどうか。ネット情報のレベルだが、色々調べてみても、平時からの防災体制について説明している情報は発見できなかった。
 こうした直接的な被害の原因となった警戒態勢、避難態勢の不備が、まず政治課題としても問われねばならないと思うのだが、各政党がこの災害から下院選挙の争点として導き出しているのは、もっぱら気候変動対策である。
 もともと西ドイツ時代の1980年代から、環境政党である「緑の党」の力が強いことからも伺えるように、環境問題に関するドイツ人の関心は強い。大気中の二酸化炭素が温暖化の原因であり、それが気候激甚化の原因とする考え方は、異論はあるにしても科学的な知見であるし、さらにその解決のための行動は理想主義的で、ドイツの国民性にピッタリなのだろう(このテーマは以前この欄でも書いた)。
 確かにこの5年くらいだと思うが、ドイツでは、それまで考えられなかった高温、干ばつ、豪雨が頻発しており、二酸化炭素削減が最重要課題と考えるドイツ人が多いこともむべなるかな、という感じもする。
 この洪水で最も追い風を受けると考えられたのは緑の党で、選挙公約に排出削減目標の前倒しや石炭火力発電の早期廃棄などを入れていたのに加え、洪水後さっそく、気候変動対策予算の増額などを盛り込んだ緊急公約を発表した。
 ただ、大方の予想に反して緑の党への支持は増えなかった。洪水直後にやや増加したが、8月に入ってからの世論調査で19%程度とそれ以前に戻った。どうやら首相候補として選挙戦の前面に立っているアンナレーナ・ベーアボック共同党首(40)の人気が今ひとつなことが原因のようだ。ベーアボックについては、経歴詐称や出版した本の盗用疑惑などが報じられ、清新さを売り込むはずが、むしろ政権担当能力への不信感が広がる状況になっている。
 排出削減目標の前倒しなどが、さほど支持を増やす要因にならないのは、主要政党がすでに気候変動対策を公約の中に取り込んでいることもあるかも知れない。メルケルが所属するキリスト教民主同盟(CDU)も、連立与党の社会民主党(SPD)も、2045年までの脱炭素目標を掲げている。2030年までに1990年比で65%の排出削減目標達成は難しいというドイツ環境省の報告書も報じられているので、さすがのドイツ国民も削減目標の前倒しには現実味を感じなくなっているのかも知れない。

 唯一、気候変動対策に異議を唱えるのは、地球温暖化と二酸化炭素増大との関係は不明として、脱炭素目標を拒否する右派ポピュリズム政党「ドイツのための選択肢」(AfD)だが、同党が支持を集めるのは限界がある。
 むしろ現在の選挙情勢を左右しそうなのが、各首相候補個人に対する政治家としての評価である。洪水だけでなく、デルタ株の新型コロナ感染拡大、さらにアフガニスタン情勢悪化にともなう難民流入再来の恐れなど、様々な危機が襲う中で、特に危機管理能力への評価が選挙結果を左右する状況になっているのではないか。
 キリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)の首相候補であるノルトライン・ヴェストファーレン州首相アルミン・ラシェット(60)は、洪水被災地視察の際、関係者と談笑している様子がテレビ等で報じられ、危機管理能力に疑問符が付いた。ベーアボックも行政経験が皆無で、危機の時代にふさわしい政治家と見なされていないのだろう。
 代わって支持を集めているのがSPD首相候補のオラフ・ショルツ副首相兼財務相(63)で、豊富な実務経験と安定感で、彼個人への支持ばかりか、SPDへの支持もここへ来て急上昇している。
 このように、洪水は選挙情勢に複雑な影響を与えている。緑の党は気候変動対策に結びつけられず、CDU・CSUはラシェットの脇の甘さが失点となり、SPDはショルツの危機管理能力への期待から支持を回復している。これまでCDU・CSUと緑の党の連立政権発足の可能性が一番高いと見られてきたが、両者とも支持を落としていることから、この3党(CDUとCSUは別政党)での連立は難しくなり3党(SPD+緑の党+自由民主党(FDP)など)ないし4党(CDU・CSU+緑の党+FDPなど)連立の可能性が高まっている。選挙情勢は終盤になってますます混沌としてきた。