Green Tyranny
有馬 純
国際環境経済研究所主席研究員、東京大学公共政策大学院特任教授
筆者がトランプ政権のエネルギー温暖化政策を取材した際、Competitive Enterprise Institute のMylon Ebel と知己を得た。彼はオバマ政権のエネルギー温暖化政策を厳しく批判してきた人物であり、トランプ氏が当選した際、環境保護庁(EPA)の移行チームにも参加している。そのMylon Ebel から送られてきたのが本書Green Tyranny (緑の専制)である。著者のRupert Darwall はケンブリッジで経済学、歴史学を専攻し、投資銀行に勤め、サッチャー政権時代には蔵相の特別補佐官を歴任した。その後、Wall Street Journal, Daily Telegraph, National Review, Spectator 等にエネルギー温暖化問題を含む論考を発表しており、本書の他にもThe Age of Global Warming – A History (2013)等がある。
Mylon Ebel が著書を送ってきたこと、何よりもGreen Tyranny というタイトルが示すようにDarwall はいわゆる「温暖化懐疑派」に属する人であり、環境主義が人々の自由を束縛する全体主義的な要素を色濃く有していることに強い警鐘を鳴らしている。興味のある読者は併せてヘリテージ財団で彼が本書の主要ポイントを紹介したビデオがあるので参考とされたい。
https://www.youtube.com/watch?v=Ud14oTQpbAE&t=11s
本書の主要なポイントは以下の通りである。
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- 1960年代末~1970年代に欧州において最初に酸性雨問題、温暖化問題をとりあげたのはスウェーデンのOlof Palme首相であり、スウェーデンは永世中立国という道徳的に優越した立場を活用し、1972年のストックホルム会議、1988年のIPCCの設立(初代IPCC議長のBert Bolin はPalme 首相の親しい友人)等、国際政治外交における環境問題のステータスを上げることに大きな役割を果たした。しかしPalme首相が酸性雨、温暖化問題をプレーアップした動機は、社民党政権が国内で進めている原発建設への反対を押さえ込み、石炭を攻撃するためのツールであった。
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- 温暖化防止の主要アジェンダ化はスウェーデンが当初企図したような原子力時代の到来にはつながらなかった。欧州で大きくクローズアップされたのは高コストで信頼性の低い太陽光、風力である。これはドイツの影響である。歴史上最初に風力発電を国家プロジェクトとして進めたのはナチスドイツであり、自然保護運動、嫌煙、健康志向等、現在の環境保護運動のルーツの多くはナチス時代に始まる。ナチズムには合理主義、資本主義に対する根強い敵意、人間は自然の法則に従うべきであり、人間の行動様式を政府が改変しなければならないという考え方が内包されている。ナチズムから民族差別、軍国主義、世界征服の野望を差し引き、温暖化を加えれば、ほぼ今日の環境主義とイコールである。
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- ナチス時代にはマルクーゼをはじめフランクフルト学派のマルクス主義者が米国に亡命し、米国の大学の左傾化を主導した。戦後、ドイツに戻ったフランクフルト学派の学者たちは過激な新左翼のオピニオンリーダーとなった。新左翼のあるものはテロに走り、影響力を失ったが、あるものは環境主義を取り入れて復活した。Joshka Fischer(後のドイツ赤緑連合の副首相・外相)が設立した緑の党がそれにあたる。彼らは東西冷戦における西側の結束阻害を狙ってソ連が背後でサポートした反核運動、平和運動を国内で推し進めた。新左翼はその成り立ちから反ナチであるはずだが、環境主義においては、異論を認めず全体主義的であるという点で極めてナチ的である。
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- 緑の党や社民党左派の環境主義者はシュレーダー政権下の「赤緑連合」で政権中枢に入り込み、2000年に再生可能エネルギー法を導入した。緑の党は再エネが大量の雇用を有むと確約したが、雇用創出が進んだのはドイツではなく中国であり、Jurgen Trittin 環境大臣は「再エネ補助金のコストはせいぜい毎月アイスクリーム一杯分」と言っていたが、9年後には1兆ユーロに達している。ドイツのエネルギー変革はrent seeker の懐を肥やす以外、誰のメリットにもなっていない。Merkel 首相は再エネ政策の高コストを知りながら、自らの政治的ポジション強化のため、欧州ワイドでEU再エネ指令の導入を推進した。ドイツでは原子力フェーズアウトにより、褐炭火力が増大しCO2が減るどころか増大している。また再エネ推進はEU-ETSを機能不全に落としいれている。温暖化防止を目的にするならば原子力を可能な限り運転すべきであるにもかかわらず、環境NGOが原子力フェーズアウトし、再エネ推進を主張しているのは温暖化防止は口実に過ぎず、特定産業の利益増進に走っているからだ。
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- 風力や太陽光への再エネ補助金を持続させるため、官僚、学者、環境活動家、ロビイストから成る「気候産業複合体(Climate Industrial Complex)」が形成されており、膨大な人的ネットワークを通じて政府や規制当局への政策提言をコントロールしている。彼らは再エネを中心とする温暖化政策の便益を過大評価し、コストを過小評価している。他方、誰も間欠性のある再エネがグリッドに大量導入された場合のコストを検証していなかった。政府の風力・太陽光への補助金政策は「不適者の生き残りを確保するというよりも、不適者に勝利を確約するものであった」(less about assuring the survival of the unfittest than guaranteeing the triumph of the unfittest)。ビジネスと異なり、政府の失敗のツケを払うのは国民である。
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- Greenpeace, Friends of the Earth, WWF 等の環境NGOは気候産業複合体の「突撃隊」であり、メディアと同様「責任を伴わない権力(power without responsibility)」を形成している。NGOを動員しているのは科学的、技術的合理性ではなく、恐怖と感情である。彼らは当初、温暖化問題が原子力を推進するための「トロイの木馬」になることを懸念していたが、風力、太陽光推進に活路を見出し、石炭、原子力を攻撃している。彼らは本来、自然保護を目指していたはずであるが風力による猛禽類や渡り鳥の被害やバイオマス利用による森林伐採には目を向けようとしない。
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- ドイツ主導で導入した再エネ指令は欧州と米国とのエネルギーコスト差を拡大し、加盟国における再エネ過剰投資を招いたことが明らかになり、欧州委員会は2030年エネルギーパッケージの中から各国別再エネ導入義務を落とさざるを得なくなった。「ドイツやスペインが(再エネ推進を含む)EUのユートピア政策の犠牲になった」という見方があるが、実際はEUがドイツの政策の犠牲になったのである。
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- 米国ではカリフォルニアで環境主義が広まった。フランクフルト学派の影響で西海岸の大学は左翼が強く、リアリティよりもイデオロギー先行の傾向が強い。カリフォルニアでは2020年までに総発電量の3分の1を再エネにするとの法律が2011年に成立したが、この中に原子力、水力は含まれていない。再エネの大量導入はグリッドの安定性を損ない、2000年、2001年に大規模停電をもたらし、現在では電力消費の3分の1を他州に依存している。カリフォルニアは自らを米国のモデル州と称しているが、全ての州が3分の1を他州から輸入できるはずがない。カリフォルニアは米国における気候産業複合体のメッカであり、IT長者、ヘッジファンド等が環境NGOや気候学者に膨大な資金を供給している。カリフォルニアには億万長者が最も多く居住する地域であると同時に最も貧富の格差が大きい州である。富裕層にとって環境NGO、環境産業への支援は免罪符であり、自分たちの富への攻撃を避ける最良の手段である。
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- カリフォルニアの環境主義はワシントンにも飛び火し、気候産業複合体はオバマ政権がCO2規制を導入しなければ訴訟を起こすとの戦略を展開した。その結果、導入されたのがクリーンパワープランである。しかしクリーンパワープランの便益(温暖化防止効果)の大半は他国に回ることになる。このため、オバマ政権は温暖化防止よりも大気汚染、健康被害防止によってクリーンパワープランの正当化を図り、再エネのコストを大幅過小評価し、健康面の便益を過大評価し、米国人の電力消費が減るという非現実的な想定をおいた。大気汚染や健康被害防止を目指すならばもっと安いコストで同じ効果が得られたはずである。クリーンパワープランの影響は酸性雨対策よりもはるかに深刻である。酸性雨対策は法律に基づいており、上院は1992年に気候変動枠組条約を批准した。しかしパリ協定もクリーンパワープランも議会の承認を得ていない。これは三権分立を規定した米国憲法の根幹にかかわるガバナンスの問題である。
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- 欧州では温暖化問題について「沈黙の螺旋」(spiral of silence)」が蔓延している。気候変動エネルギー問題ではマスメディアが一方的な報道を流し、それに疑問をさしはさむ意見には「気候懐疑派」、「化石燃料の利害代弁者」といったレッテルが貼られている。エリザベス・ノエルノイマンが指摘したように人は友人やSNSのフォロワーの支持を得られない意見表明を差し控える傾向がある(「沈黙の螺旋」)。しかし少数のエリートの意見が幅をきかすメディアの意見は世論ではない。気候変動の科学の最大の問題は前提が非科学的であり、その結果が全体主義的であることだ。幸い、米国ではまだ気候変動について議論できる土壌がある。温室効果ガス削減には多大な行政介入を必要とするが、米国憲法は三権分立によって行政の肥大化をチェックする機能を有する。環境主義との戦いは米国を米国たらしめるもの(自由)を守る戦いである。
上記のように本書は環境主義に対する強烈な批判に貫かれており、温暖化問題にかかわってきた筆者の目から見て一方の極に傾きすぎているように思える。本書冒頭で彼が謝辞をささげている人々の中にMylon Ebel 以外にもJohn Constable (GWPF), Benny Peiser (GWPF), Nick Loris (Heritage Foundation)等、「懐疑派」のオンパレードなので当然といえば当然だろう。 他方、ドイツにおける再エネ政策の失敗、気候産業複合体(「原子力ムラ」ならぬ「再エネ、温暖化ムラ」)の存在、メディアの偏向と異なる意見に対する中傷が「沈黙の螺旋」を生んでいる等、筆者自身の皮膚感覚に照らしてうなずける点も多々ある。福島原発事故後に原発の存在意義を冷静に論じる意見に対して「原子力ムラ」とバッシングが生じたこと、FIT導入時に「コストはせいぜいコーヒー一杯分」と言われたこと等、我が国に当てはまる事象も多い。ドイツにおける環境主義のルーツがナチス時代にあったということは聞いていたが、本書で改めて確認できたことも興味深かった。アマゾンで本書の評価を見てみると☆5つと☆1つが混在している状況で、気候変動問題をめぐる意見対立がいかに深刻かを示している。筆者は温暖化問題の重要性を信ずるものであるが、温暖化の科学、温暖化政策についてもっと自由闊達な議論があってもよいとも思っている。その意味で、本書は極端な形であれ、別な見方を提示しているという意味で、一読をお薦めするものである。