福島生インタビュー(その2)

震災・原発事故で大きなダメージを受けた福島県の今の状況をキーマンに聞く


国際環境経済研究所理事・主席研究員

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 「福島生インタビュー」では、東日本大震災そして東京電力福島第一原子力発電所事故により、放射能汚染を受け、多くの住民の方が避難され街の機能を失ってしまった福島県浜通り地区が現在実際にどうなっているのかをいろいろな関係者の方のインタビューを通して伝えていきたいと思います。
 第2回目は、5月10日に富岡ホテル(株)の代表取締役渡辺吏さんにインタビューした内容をお伝えします。富岡ホテルは、昨年10月21日に再開されたJR常磐線の竜田(福島県楢葉町)-富岡(同県富岡町)間の運行に先立ち、10月17日に富岡駅前にオープンしたホテルです。
 

震災前の富岡駅(出所:Wikipedia)

震災前の富岡駅(出所:Wikipedia

震災直後の富岡駅(出所:Wikipedia)

震災直後の富岡駅(出所:Wikipedia


現在の富岡駅(出所:Wikipedia)

現在の富岡駅(出所:Wikipedia

もともとは富岡駅前の食料品店

富岡ホテル渡辺吏社長

富岡ホテル渡辺吏社長

影山:
震災前は、渡辺さんは何をなさっておられたのですか。
渡辺 吏氏(以下、敬称略):
もともとは、駅前で食料品店を営んでいました。生鮮食料や雑貨、酒などを扱っていました。親の代から続いている店です。昭和34年に親が商売をはじめ、私は昭和55年から店にたずさわるようになりました。父と一緒に店をやっていました。経営は大丈夫でしたが、大型店舗ができるようになって、何とかやっているという状況でした。守っているだけという感じですか。地域に密着して商売をしていましたから、近隣のお宅には配送もしましたし、お年寄りは、買い物の後、家まで送って行ったりしました。 田舎町で落ち着いていましたが、東電(の原発)が来て、少しずつ栄えていきました。人も増え、活気はあったと思います。

須賀川に避難しました

影山:
震災、原発事故の後、どうされましたか。
渡辺:
震災の時は、店をやっていました。山手の方に避難し、津波が引いてから自宅に帰りましたが、1階の店舗は津波が入って使い物にならない状態でした。2階は大丈夫でしたが、電気もつかず、学びの森(高台にある富岡町の文化交流センター)に一泊しました。次の日は、原発の影響で避難を余儀なくされ、川内村(福島県川内村、富岡町の隣の村)に3泊したあと、姉の親族をたよって須賀川(福島県須賀川市)に避難しました。しばらくして、須賀川でアパートを借りました。その後7年間須賀川で暮らすことになりました。

仮設店舗を始めました

影山:
避難は大変だったと思います。ご家族でさぞかし苦労されたのではないかと思います。須賀川に避難されてからの生活はどうされたのですか。
渡辺:
平成24年になって、富岡町の商工会から声をかけられました。大玉村(福島県大玉村、須賀川から25kmほど)というところに富岡町の住民が避難している仮設住宅があったのですが、ここがお店難民でした。近くにお店がないのです。商工会から店をやらんか、と言われ、何人かで共同して仮設店舗をやることにしました。店舗は、行政が用意し、福島県中通り地区の市場関係者に知っている人がいましたので、その人に品物の調達のアドバイスをもらい、また大玉村の肉屋さんも協力してくれました。いろんな人の協力と富岡町商工会に所属していた仲間の熱意で続けられたと思います。この仮設店舗は、平成29年まで続きました。富岡町の避難解除に伴い、そこにあった富岡町の診療所の閉鎖とともに仮設店舗も店を閉じました。この間、私はずっと須賀川から大玉村まで通って、店を運営していました。
影山:
仮設住宅の皆さんはさぞかし喜ばれたことと思います。
渡辺:
仮設住宅は郡山にもありました。そこで毎週水曜お年寄りの皆さんが集まるイベントがありましたので、それに合わせて移動仮設店舗をやることになりました。テントとテーブルだけで物を売っていました。朝早く行って、テントを組み立てて、物を準備して、それでお店をやったのです。結構好評でした。

何かできる、しなくてはいけないと思いました

影山:
でも続けるのは大変ですよね。
渡辺:
私は、前向きに何かしていないと居られないタイプではないかと思います。ずっと何かやりたいと思っていました。まだ、この現状で何かをしよう、しなくてはいけないと思っていました。自分のやっていた商売をやらないかと言われて正直ありがたかったです。
影山:
町の皆さんはどうだったのでしょう。
渡辺:
仮設住宅は、お年寄りが多かったです。がっかりされていて、孤独死も多かったと思います。若い人は、最初は、仮設住宅にいましたが、しばらくすると、アパートを借りて住むようになりました。人々のモチベーションはさまざまでした。何かやらなきゃと思う人とがっかりして何も手につかない人。年齢が高いと仕事もないので大変でした。でも、私は、状況を悲観してはいませんでした。仕事ができていることが良かったと思います。

富岡でホテルをやろうとみんなで相談しました

影山:
大変な状況ですよね。その中で前を向くというのは、すごいことですね。
渡辺:
働いている仲間でいろいろ話しました。将来的には、富岡で何かやりたいよね、まだできるよね、という意見があり、皆でやろうかという話をしていました。復興というより、自分たちで何かしたい、できるという気持ちです。長年住んだ富岡でやりたいと思いました。そんな話をしているとき、宿泊場所が足りないという情報があって、補助制度もあるだろうし、ホテルが良いかなと考えました。
影山:
話し合ったのは、どんなメンバーだったんですか。
渡辺:
大玉村で働いていた中から3名が中心になり、これらの人が声をかけて、8名が集まりました。青果市場や飲食店、衣料品店、車のディーラー、旅館業、雑貨屋などで働いていた人が集まりましたので、ホテル業はほとんど素人集団です。ただ、若い人たちもいて、やる気がありました。若い人たちに継いでもらえばよいかなと考えました。ホテルをはじめるにあたって、皆で出資し、皆で借金を背負ってやっていくことになりました。あまり不安はありませんでした。前に進むだけ。やる気のある8人が始めたということです。

決して順調ではありませんでしたが、皆さんの協力で前に進んでいきました

影山:
それでいよいよホテル建設構想がスタートしたわけですね。
渡辺:
平成26年ぐらいから話し始めて、最初は3人でしたが、平成28年ごろから本格的に検討をしていきました。はじめから、なかなか大変でした。最初は、補助の対象ではなかったのです。既存のものの再建には、補助がありましたが、新たなものを皆でやるというのには補助はありませんでした。私は、補助金の説明会で新しいものにも補助を出してほしいと意見を言い、国から「何がしたいのか」という電話をもらったという状況でした。その甲斐があったのか、しばらくして補助制度が変わり、国が紹介した県の人を介して、国と補助金の交渉が始まりました。国も新しいものについては、初めてだったので、慎重に検討をしていました。町も応援してくれ、場所については町が協力してくれました。国・県も熱心に協力してくれました。ただ、検討の中で、補助金が当初の話から大きく削られ、前に進むのが大変厳しい状況になりました。やめようかという意見もありましたが、皆で話し合い、前に進むことにしました。これは、若い人たちの強い意志があったからです。
影山:
いろんな壁を乗り越えて進んでいったのですね。
渡辺:
ホテルの経営も素人です。商工会の紹介で国の事業支援の制度を使い、コンサルタントからアドバイスを受けたり、県外のホテルで研修を受けたりしました。親切に協力してくれるホテルもあり、大変ありがたかったです。また、ホテルの建設もなかなか受け手がいませんでした。相手にされない会社もありましたが、積水ハウスに声をかけたところ引き受けてくれました。積水ハウスは、ホテルの施工は初めてだったようです。

富岡ホテル

富岡ホテル

「何人しか帰っていない」という言い方は好きじゃない

影山:
富岡ホテルはスタートしましたが、地域の復興の状況はどうですか。
渡辺:
さくらモールも営業を始めました。建設系が多いかもしれませんが、個人的に事業再開している人もいます。本格的な大きな施設に取り組んだのは、この富岡ホテルが初めてではないかと思いますが、これをきっかけにいろいろなものが出てくれば良いと思います。まだまだです。これからじゃないでしょうか。何人しか帰ってこないなどの「しか」は、好きじゃありません。焦らずゆっくりやっていけば良いのではないかと思います。あと何年かかるかわからないけれど、新しい人もやってきて、住む人が増えてくれば良いと思います。戻そうと思っても戻らない人はいます。10人に10人の考えがあります。みんな戻って来て欲しいというより、新たな人も来て、街づくりをし、新しい街ができれば良いのではないかと思います。復興とはそういうものなのかもしれません。昔の人が戻って来てくれれば良いと思いますが、新しい産業、観光ができ、発展して新しい街ができてくれば良いのではないかと思います。

焦らずに一歩一歩進んでいけばよい

影山:
新しい街づくりですね。
渡辺:
復興に向けて、どのくらい戻ったかということではないと思います。これからどうするかということだと思います。震災前も、一歩一歩進んできました。やっきになって発展させることもないのではないかと思います。あせらずに一歩一歩。いろんなことをたくさん一度にやるより一つずつやっていけば良いのではないかと思います。前に進んでいくことが大事です。そしてこれから住む人が新しい街を作っていけば良いのではないでしょうか。そこにできる限り協力していきたいと思います。

県も町も試行錯誤でやってきた

影山:
皆さん頑張っています。国、県、町の支援はどうですか。
渡辺:
今の状況はまだまだだと思いますが、県や町に何やっているんだろうという思いはありません。ここまで来たんだ、やってきたことは大したもんだ、ここまで来るのは大変だったという思いです。皆、どうして良いかわからなかったです。いろんな意見がありましたが、それを調整してここまでやってきたのです。国や県、町なんか役に立たない、と思う時期もありましたが、ホテルをやるにあたって、行政の中で真剣に考えてくれる人がいるんだということがわかりました。県の人も元気づけてくれ、応援してくれました。ありがたく思っています。一生懸命考えてくれる人が、たくさんいることがわかってうれしかったです。

今をどう生きるかが大事

影山:
東電に対する思いはいかがですか。
渡辺:
東電に対して、うらみとか、何もないです。それより、今をどう生きるかが大事です。前を向いていきます。