続・欧州のエネルギー環境政策を巡る風景感
-市場安定化リザーブはEU-ETS再生の決め手となるか(その2)-
有馬 純
国際環境経済研究所主席研究員、東京大学公共政策大学院特任教授
環境関係者や英国等の加盟国は、欧州委員会提案を歓迎しつつ、EU-ETSを立て直すためには、もう一歩踏み込んだ対応が必要であると主張している。特に炭素市場の中心である英国のデイビー・エネルギー気候変動大臣は、ドイツ、オランダ、スウェーデン、デンマーク、スロベニア、マルタ、ノルウェー(注:ノルウェーはEU加盟国ではないがEU-ETSには参加)を誘って大臣名の共同声明を発表し、MSRの導入時期を2021年から2017年に前倒しするとともに、バックローディングの対象となった9億トンのクレジットも2019-2020年に市場に戻すのではなく、リザーブに繰り入れるべきであると提案した。産業界でもコストを転嫁できるエネルギー(電力)産業は賛成の立場である。
これに対し、ポーランド、チェコ等の東欧諸国は価格への人為的介入であるとの理由でMSRの導入に反対している。欧州の経団連に相当するビジネス・ヨーロッパは、EU-ETSの改革が必要であるとしつつも、MSRと併せ、炭素リーケージを防ぎ、イノベーションを促進するための抜本的な対策が必要であるとの立場をとっている。2017年からの前倒し導入とバックローディングされた9億トンの繰り入れとの英国等の提案については、「EUの政策フレームワークはビジネス界の投資を可能にするような予見可能なものでなければならない。そのためには政策担当者が合意済みのルールを後から変えることは止めるべきだ。バックローディングされた9億トンは2019-20年に市場に戻すことで昨年合意したばかりである。また炭素リーケージ対策やイノベーション促進策を含む、抜本的なEU-ETS改革を行うためには、欧州委員会提案どおり2021年からの導入とすべきだ」として真っ向から反対している。
欧州議会では既に前哨戦が始まっており、2月24日には環境委員会が2019年からの導入とバックローディングされた9億トンのクレジットをリザーブに繰り入れることを内容とする決議を行った。当然ながら、環境関係者や英独はこれを歓迎している。例えば環境コンサルのSandbagは、2021年導入、9億トンの市場への戻しを内容とする欧州委員会提案と、環境委員会の決議内容を比較し、余剰クレジット量がいかに違うかを示す分析を発表している。
他方、ビジネス・ヨーロッパは「本日の結論は国際競争力への悪影響に配慮せず、エネルギー多消費産業や貿易にさらされた産業に更なる負担を強いるものである。MSRを導入する場合、直接・間接の炭素コストによる炭素リーケージを防ぐ強力な条文を盛り込むべきである。欧州理事会、政策担当者はもっとバランスのとれたアプローチをとることを望む」との声明を発表し、強い失望感を表明した。
MSRの導入のためには最終的には加盟国の合意が必要であり、今後、エネルギー相理事会、環境相理事会、欧州理事会で議論を重ねることになる。EU議長国ラトビアは本件について、自国が議長国である間に決着したいとの意向を有しており、今後の調整が注視される。
市場安定化リザーブの効果
何も対策を講じなければ21億トンの余剰クレジットが存在し続け、炭素クレジット価格が更に低迷することは明らかだが、MSRが導入された場合、価格にどの程度の効果があるだろうか?強力なMSRが導入されれば、炭素価格は2015年末までに15ユーロ近くまで上昇するという見通しがある一方、電力部門におけるクレジット需要の伸びの見通しを低めにとると、環境委員会提案がそのまま実現したとしても、20億トン近い余剰量が市場に滞留し、はかばかしい価格浮揚効果は見込めないという見通しもある。仮に炭素価格が15ユーロに上がったとしても、石炭からガスへの燃料転換のトリガーとしては不十分という見方が強い。MSRは炭素価格の更なる暴落を防ぐセーフティネットとしては機能するが、EU-ETSを総量規制のみならず、低炭素投資や燃料転換の強力なドライバーにするためには、MSRの導入を超えた、更なる抜本的な政策変更が必要という議論もある。
しかし、EU-ETSが石炭からガスへの燃料転換のドライバーになるためには、現在の7ユーロから4-5倍の30-35ユーロまで炭素価格を引き上げる必要がある。欧州委員会の分析では、1ユーロ炭素価格が上昇するごとに、産業向け電力料金が0.8%、家庭用電力料金が0.5%上がるとされている。7ユーロから30ユーロに上がれば、産業向け18%の上昇、家庭向け15%の上昇となり、欧州産業の国際競争力の問題や家庭用エネルギーコストのaffordability の問題を惹起するだろう。「炭素価格は高ければ高いほど良い」といった環境原理主義的なアプローチは取り得ない。総選挙を今年5月に控えた英国では、炭素価格にフロアプライスを設け、年々引き上げるという施策を棚上げにせざるを得なかった。
このようにEU-ETS改革に当たっては、炭素価格のみならず、制度の安定性、産業競争力や家庭への影響、加盟国間の意見の違いにも目を配った、綱渡りのような対応が必要になる。そうした制約条件の中で欧州委員会が知恵を絞ったMSR提案である。複数のオプションを検討し、インパクトアセスメントをし、それをワーキングペーパーの形で公開する欧州委員会のアプローチは、立場の違いを超えて敬服に値すると思う。今年半ばにかけてMSRがどのような形で決定されるのか、開始前、開始後で市場にどのような影響を及ぼすのか、注視したいところである。