「大飯原発判決」これだけの誤り
澤 昭裕
国際環境経済研究所前所長
(産経新聞「正論」からの転載:2014年6月3日付)
5月21日、大飯原発運転差し止め請求に対し福井地裁から原告請求認容の判決が言い渡された。この判決には多くの問題がある。
≪専門技術知識欠いた判断≫
第一に論理の乱暴さである。判決は、「(新しい)技術の危険性の性質やそのもたらす被害の大きさが判明している場合には、技術の実施に当たっては危険の性質と被害の大きさに応じた安全性が求められることになるから、この安全性が保持されているかの判断をすればよいだけ」とし、危険性を一定程度、容認しないと社会の発展が妨げられるのではないかという議論を切り捨てている。
だが、まさにその「危険の性質と被害の大きさに応じた安全性」を確保するため原子炉等規制法が改正され、福島第1原発事故の反省に立って規制基準を厳格化したうえで原子力規制委員会が新基準適合性を審査しているのだ。
判決は「人格権」の保護という法理から裁判所は直接的に危険性の有無を判断できるとし、「行政法規の在り方、内容によって左右されるものではない」として規制委の判断は無関係だと言う。
しかし、福島事故後に改正された新炉規制法は「国民の生命、健康及び財産の保護」を法目的に謳(うた)い、「人格権」自体を保護するための法律であることを明確にしている。判決はこの点を全く無視して、あたかも裁判所のみが人格権保護の役割を持っているかのような態度を取る。そのうえ、炉規制法に基づく新規制基準の適否について評価もしないまま、原発の危険性について独断的説示を行っている。しかも、その検討内容はずさんだと言わざるを得ず、判決後に専門家からさまざまな技術的誤りを指摘する批判が出ている。
こうした批判は事前に予想していたとみえ、判決は「(人格権の法理)に基づく裁判所の判断は…必ずしも高度の専門技術的な知識・知見を要するものではない」と予防線を張っている。専門技術的な知識に基づく規制委の規制基準と必ずしも専門技術的な知識に基づかない規制基準が二重に存在することになるという点について、判決は何も語らない。
≪「ゼロリスク」求めた愚≫
第二に「危険性」と「安全性」の定義を明確にしていないため、判決自体も混乱していることだ。前述の通り「安全性が保持されているかの判断をすればよいだけ」と自ら述べつつ、その後で「かような事態を招く具体的危険性が万が一でもあるのかが判断の対象とされるべき」としている。判決はこの二つの議論を同義だと考えているようだが、誤りである。
裁判官が安全規制の本質を理解していない証左だろう。原子力を含む全ての技術に危険性が存在することを所与のものとして、その危険性が顕在化する確率を最小化し、顕在化した際の被害を最小限に食い止める対策を施すのが安全規制の根本的な考え方なのだ。