私的京都議定書始末記(その35)
-混迷する交渉とEUの変節-
有馬 純
国際環境経済研究所主席研究員、東京大学公共政策大学院特任教授
混迷するAWG-LCA交渉
2010年を通じ、メキシコ主催非公式会合やMEF等の少人数会合では雰囲気が和らいできたものの、AWGにおける交渉自体は相変わらずであった。先進国は「コペンハーゲン合意の中身を実施可能なものにし(operationalize という表現がよく使われた)、カンクンでCOP決定として正式採択すべき」と主張した。コペンハーゲンに至るまでAWG-LCAの議論がどうしようもないこう着状態となり、首脳プロセスで皆がぎりぎり合意できるラインをまとめたのがコペンハーゲン合意である。したがってそれをベースに交渉を進めるのが合理的な方向性である。
ところが国連プロセスとは奇妙なもので、一歩進んだかと思うと時計の針を元に戻すような議論が起こる。コペンハーゲンまで膨張を続けたAWG-LCAの交渉テキストの中には、合意の見込みがないとして、コペンハーゲン合意に盛り込まれなかった事項・要素が多々ある。しかし、それぞれの背後には、色々な国々のこだわりがあり、彼らにとってコペンハーゲン合意をベースとした議論は自分たちの主張の切捨てに映る。典型的な事例は「先進国における温暖化対策の推進による石油・ガス輸出収入の減少を補償せよ」という産油国の主張である。ボリビア、ベネズエラ等のALBA諸国は「母なる地球を汚した歴史的責任を先進国が負うべき」といった主張を声高に行っていた。コペンハーゲン合意策定に参画していた中国、インドも、コペンハーゲン合意をベースとした交渉には後ろ向きであった。
このためAWG-LCA交渉は「コペンハーゲン合意のoperationalize」 という本来あるべき形ではなく、AWG-LCAの交渉テキストをベースとしつつ、コペンハーゲン合意に盛り込まれた要素については、それを反映させるという非常に手間のかかることをやっていた。しかもコペンハーゲン合意の内容を合意済みとして扱うこともできなかった。そもそもコペンハーゲン合意を認めていないALBA諸国のような国々があったからである。
サウジ名札事件
わき道にそれるが、交渉が遅々として進まない中で、2010年6月のAWG交渉ではサウジアラビアの国名を書いた名札が折られてトイレに捨てられるという事件が起きた。サウジアラビアは上記の補償問題で強硬な主張を繰り返し、化石賞の常連という途上国の中でも特異な存在であったが、どんな理由があるにせよ、主権国家のネームプレートをトイレに捨てるなど、許される行為ではない。当然、大問題となり、犯人探しが行われた。最後は2つの環境NGOのメンバーが名乗り出てそれぞれの団体が謝罪文を出すという展開になった。当該環境NGOの交渉への参加禁止という厳罰論もあった。サウジアラビア交渉団長のアル・サバーン特使はこの世界では古株で、二言目には「It’s totally unacceptable!」という強硬な交渉態度で知られた人であったが、この時は「サウジアラビアは赦すという文化を持つ国である」と言って度量を示していた。
AWG-KPでの議論
AWG-KPではコペンハーゲン合意などなかったかのごとき議論が続いていた。相変わらず先進国の削減幅をめぐるやり取りが中心である。例のナンバーグループの共同議長のうち、オーストリアのボランスキー女史は交代し、欧州委員会のユルゲン・ルフェーブル氏が就任した。
彼と初めて会ったのは2000年代の初めに温暖化交渉に参加していた頃である。当時、彼は環境NGOからサモアのお雇い交渉官になっていた。EUと一緒になって京都メカニズムのルールを可能な限り厳格化すべきと主張しており、京都メカニズムを使いやすいものにすべきと主張するアンブレラグループと対立していた。2008年に再び交渉に参加した時は欧州委員会に転じており、ルンゲメツカー局長の右腕として活躍していた。最も議論が対立するナンバーグループの共同議長に就任した彼には正直、同情を感じたものである。