IEA勤務の思い出(1)
有馬 純
国際環境経済研究所主席研究員、東京大学公共政策大学院特任教授
本コラムで欧州のエネルギー環境政策について愚見を述べているが、そのバックグラウンドになっているのは、足掛け6年近くになる温暖化交渉の経験と4年にわたるパリの国際エネルギー機関(IEA)での勤務経験である。
私が初めてIEAという国際機関に触れたのは1982年に通商産業省に入省し、資源エネルギー庁国際資源課(現・国際課)に配属されたときである。雑巾がけのような仕事を除けば、最初のサブスタンスのある仕事がIEAの出版物「天然ガス:2000年への展望(Natural Gas: Prospects to 2000)」と「世界のエネルギー展望(World Energy Outlook)」の和訳作業への参加であった。当時、国際資源課長はほぼ毎月のようにIEA理事会に出張しており、パリのIEAという国際機関は私にとってまぶしい存在だった。その頃、IEAの対日国別エネルギー審査団も来日し、課長補佐の命により、KDDを通じて審査団長のドイツ人に恐る恐る国際電話をかけたことを今でも思い出す。
その後、1992年にケニア勤務から戻り、国際資源課課長補佐になり、IEAの会合にも何回か出席する機会を得た。1994年にはIEA設立20周年記念理事会と国際セミナーを京都で開催し、IEA理事会メンバーを大阪のエネルギー施設見学や道頓堀視察に引率した。
しかしIEAと本当の意味で密接に付き合うようになったのは1996年~99年のOECD日本政府代表部勤務の時であった。私のポジションはエネルギー・アドバイザーと言われ、代表部にあってIEAとの日常的なコンタクトをしていた。本省からの指示をうけてIEA事務局にインタビューに行ったり、日本の考え方を伝えたりすることを通じて、プリドル事務局長、ラムゼー次長(いずれも当時)初め、事務局の主要メンバーと知己を得ることが出来た。
1999年に帰国し、資源エネルギー庁石炭・新エネルギー部(その後、省エネ・新エネ部)の企画官、国際課企画官をしたが、その際も代表部時代の経験もあり、IEAの会議に出席する機会が何度かあった。しかしこの時期は初めて地球温暖化交渉に巻き込まれた時期でもあり、そちらのウェートが圧倒的に大きかった。そんな中、2001年の年も押し迫った頃、資源エネルギー庁総合政策課長から「IEA国別審査課長のポストを応募せよ」との内示があった。
これは私にとっては驚きであった。確かにそれまでのキャリアの中でIEAについてそれなりの知見はあったが、何といっても国際機関であり、私のように留学経験のない者が事務局勤務をした前例はおそらく皆無だったからだ。また日本政府という後ろ盾があってIEAと仕事をすることと、事務局員としてIEAの中で仕事をすることは全く性格を異にする。大変名誉なことだと思いながらも、「これは大変なことになったぞ」と思った。
日本はIEAのほぼ4分の1の拠出金を負担しており、米国と並ぶ「大株主」である。このため、IEA事務局には通産省、経産省から連綿として出向者を出してきた。しかし、国際機関においても競争原理が導入され、経産省からの応募だからといって自動的に採用してくれるような時代ではなくなっていた。国別審査課長のポストは公募され、ショートリストに残った複数の候補者の一人として面接を受けることになる。少なくとも他の候補者に劣らない程度のパフォーマンスを示さねば採用は覚束ない。首尾よく合格すればよいが、失敗すれば格好悪いことおびただしい。現に過去も経産省からノミネートした候補者が採用されなかった事例もある。
そこで3-4月頃に予定される面接に備えて、できる限りの準備をしようと決めた。まず、インタビューのときに聞かれるであろう質問への応答や自分のエネルギー政策、気候変動交渉面での経験につき、英語でポイントメモを作成した。World Energy Outlookを初めとするIEAの主要な出版物の要約をできるだけ読んだ。英語もブラッシュアップする必要があった。仕事で海外出張に出るとはいっても、基本は国内勤務なので英語が錆付いていたからだ。経産省の配慮で英語の先生につき、自分の用意したポイントメモを題材に模擬インタビューもやってもらったりした。その頃、プリドル事務局長(当時)が来日し、日本政府の候補者として顔合わせをした。代表部時代からの面識はあったが、そこは国際機関のヘッドとして結果を予断するようなことは一切言ってくれない。「国別審査課長はエネルギー政策に関する深い知見、加盟国との調整能力が要求される。頑張りたまえ」というのが彼の言葉だった。
もちろん、温暖化交渉、国際課企画官としての本来業務があるので、受験準備ばかりしているわけにもいかず、不安の残るままでインタビューを迎えることになった。聞く所によると、私以外にオーストラリア、韓国の候補者がショートリストに残っており、特に韓国の候補者は韓国エネルギー研究所の所長だという。手強い競争相手ではあるが、今更後戻りできない。インタビューの時に舌が麻痺しないようにと、前々日にパリに入り、前日、当日は旧知の事務局スタッフを訪ねてエネルギー政策に関して雑談し、「舌慣らし」をした。OECD代表部勤務のときの人脈が役に立った。
採用面接は、国別審査課が属する長期協力局のアペール局長(フランス人)、研究開発局のディフィグリオ課長(米国人)、ハンター人事課長(米国人)とOECDの人事課長(フランス人)によるパネルインタビュー、ラムゼー事務次長(米国人)、プリドル事務局長(英国人)との面接である。インタビューの時に何を聞かれたか、余りよく覚えていない。課長として組織管理をどうやっていくか、被審査国からの協力を得るためにはどうすればよいか、省エネ指標をIEAの作業にどう活かしていくか、といった質問が出たように記憶している。兎に角、30分ほどの間、飛んでくる質問を必死で打ち返し、黙り込まないように努めた、というのが率直な印象である。
「数日の間に合否の連絡をする」ということであったが、意外に早く結果がわかった。OECD代表部勤務時代から懇意にしていたファティ・ビロル経済分析課長は事務局内の人事情報に明るく、「感触を取材しておいてやるから、インタビュー翌日に自分のところにおいで」と言ってくれた。翌日、彼のところを訪ねると、「ところで君のファーストネームは Jun でいいんだよね」と聞く。今更何を?と思いつつ、「そうだけど」と応えると、彼は「IEA事務局内では皆ファーストネームで呼び合うんだ。Jun, welcome to the IEA」と言って手を差し伸べてきた。正式な内定通知が来たのは帰国後だったが、あのときの感激は今でも忘れられない。
こうして何とかIEAに採用されることが決まり、私の足掛け4年に及ぶIEA勤務が始まった。次回は私が担当する国別エネルギー政策審査プロセスについて紹介したい。