温暖化交渉にプラグマティズムを
有馬 純
国際環境経済研究所主席研究員、東京大学公共政策大学院特任教授
他方、欧州の気候変動関係者は京都議定書のように国連が中心的な役割を果たす法的枠組み、各国の目標値引き上げを通じてギガトンギャップを埋めるといったアプローチを志向する。私のプレゼンについても欧州の交渉官や環境NGOから「プレッジ&レビューでは野心のレベルが十分に積み上がらない。政治的な意志によるトップダウンが必要」という反論があった。これは十分予想されたところではあるが、彼らの議論の問題点は、「どうやってトップダウンで目標引き上げを各国に呑ませるのか」という処方箋がないことである。EUの中ですら、何の努力なしでも達成できる20%目標を引き上げようとするとポーランド等の抵抗で合意できない状況だ。日本ではもともと達成困難であった25%目標が福島事故以後、完全に不可能になり白紙見直しをしているところだ。米国もシェールガス革命と石炭火力発電所への排出規制で2005年比17%は達成可能だろうが、それ以上の深堀をするとは思えない。
「目標値の引き上げが必要だ」と声高に叫ぶだけであれば、誰でもできる。先進国は経済低迷からの脱却、途上国は国民の生活レベル向上という課題を抱えている中で、しかも根強い先進国・新興国の対立がある中で、マイナスサムのゲームで最初に身を削る札を投じる国が出てくるだろうか?IPCC第5次報告書の内容如何では、2度では不十分、1.5度に抑えるべきという主張を惹起し、ギガトンギャップの議論を更に出口のないものにするのではないか?このことは、結果的に「出来ることからやっていこう」というプラグマティズムに基づく行動を遅らせることになってはいないだろうか。私がAdvocacyからPragmatismへと主張するのはそれが理由だ。
ある米国政府高官が「自分が若いころ、研修生として欧州委員会に出向したことがあるが、委員会内部の議論では、プラグマティズムという言葉が軽蔑的(pejorative)な意味合いで使われていることに大変驚いた。米国ではプラグマティズムはポジティブな意味あいで使われるのが常だからだ」と言っていたことを思い出す。それから20年近く経っているはずだが、気候変動交渉関係者の間では未だに「プラグマティズム」は「現実妥協的」の同義語なのだろうか。