暗雲漂う「ノルトストリーム2」の行方
三好 範英
ジャーナリスト
ロシアの天然ガスをヨーロッパに送る、バルト海海底の天然ガスパイプライン「ノルトストリーム2」(以下「2」)を完成できるかどうか。今、建設の行方に暗雲が覆っている。
ロシアのサンクトペテルブルク近郊ウスチルガと、ドイツのグライフスヴァルトの約1200㎞を結ぶ海底天然ガスパイプライン「ノルトストリーム」は、2011年に完成し、ロシアから西ヨーロッパ諸国に直接ガスを供給している。その供給能力を倍増する「2」は、2018年5月から工事が開始され、完成すれば、新たに550億m3の供給量が加わる。
ただ、このサイトの2018年8月3日付け記事「政治化する天然ガスパイプライン」で書いたように、「2」は多くの問題にさらされてきた。ロシアとドイツの間に位置するポーランド、ウクライナなど、これまで自国を通過するガスパイプラインの通過料収入を得ていた国々は、このプロジェクトに当初から反対だった。また、ロシアはこれら諸国に対し、「供給停止」という政治的手段を持つことになる。西ヨーロッパに直接ガスを送れるようになれば、政治的圧力を加える手段として「供給停止」を容易に使えるようになる、とこれら諸国は見るのである。
さらに、2018年7月、北大西洋条約機構(NATO)首脳会議の席上、トランプ米大統領は「ロシアに何十億ドルを支払う一方で、ロシアに対してヨーロッパを防衛しなければならないのは、筋が通っていない」と述べ、「2」建設を批判した。トランプ外交の、あえて言えば柱とも言える、安全保障に関する費用負担問題と絡めて、ドイツに対し建設中止を求めたのである。
ただ、ドイツ政府はトランプの本気度を深刻には受け取っていなかったのかも知れない。「プロジェクトは民間企業が行っていることであり、政治と経済は別問題」(メルケル・ドイツ首相)という認識を元に、建設は進められた。昨年末までに、全工程の94%(2本敷設するため総延長は2400㎞)が完成し、残りは150㎞となっていた。
しかし、昨年末には、敷設事業に参加する企業に制裁を課す法律が米上下院を通過、成立し、直後にスイスの敷設会社が制裁発動を恐れ、作業を中止した。
プーチン・ロシア大統領はこれに対抗し、この敷設会社のような最新の敷設船ではないが、ノルトストリーム社が肩代わりして、ロシアの敷設船2隻を派遣した。
これに対して米国がさらに制裁のレベルを上げた。7月に制裁対象を拡大し、8月上旬には、米国共和党の上院議員3人(そのうち1人は2016年の大統領予備選挙に出馬したテッド・クルーズ)が連名で、バルト海に面した町ザスニッツの港湾管理会社を相手に、制裁を発動するとの手紙を送った。この会社が「2」建設に関し、パイプの貯蔵場所や、敷設工事を行うロシア敷設船の停泊場所を提供しているとの理由である。
上院議員3人の書簡は「米国政府、議会ともに『2』の残りの工事が完成しないように団結して取り組む」と書いており、「2」建設が続行されたことへの不満が米政界の広い範囲に広がっていることを示している。クルーズらはパイプ敷設活動に関与する団体だけでなく、保険を提供する団体などへの罰金を盛り込んだ、新たな制裁法案を準備しているとも報じられた。
こうした米国の動きに対して、ドイツ側は党派を問わず反発した。上院議員の書簡に対して、地元メクレンブルク・フォアポンメルンのマヌエラ・シュヴェージヒ州首相(社会民主党=SPD)は、「連邦政府(国)はこの恐喝の試みに対し決然と対抗するように」と求めたし、「緑の党」の元環境相であるユルゲン・トリッティンは、「米国の脅しは経済戦争の宣戦布告」と述べた。
米国の横紙破りに対し、ドイツ側のナショナリスティックとも言える反発という構図が続いていたところに、さらに雰囲気を激変させる事態が起きた。反プーチン政権運動指導者アレクセイ・ナワリヌイ氏の暗殺未遂事件である。
8月20日、ナワリヌイ氏がロシア国内で突然重体となる事件が起き、ベルリンの大学病院シャリテに移送されたが、神経剤ノビチョクと同系統の毒物が使われたことが明らかになった。ノビチョクは1970~80年代に旧ソ連で極秘開発された毒物で、今でも秘密諜報機関の関係者でなければ入手することはできない、と言われる。ロシアの公的機関の関与が俄然疑われる状況となった。ドイツを初めとする欧州連合(EU)諸国はロシアに対し、制裁を含む何らかの関係見直しを検討し始めた。
米国からの圧力には超党派的に反発していたドイツだが、こうした状況で「2」の工事を存続することが望ましいのかどうか、工事中断や断念を対ロシアの制裁措置に加えるかどうか、ドイツ内外でにわかに議論が巻き起こっている。
メルケルはこの事件直後、8月28日の記者会見で、政治と経済のデカップリング(分離)を理由に、「2」建設断念を制裁の一部とすることは拒否した。しかし、9月7日には政府報道官が、「ロシアの出方によってはドイツ政府も姿勢を変えることもある」との趣旨の発言を行った。
ドイツ国内では、野党「緑の党」が「腐敗したロシアの政権を支持できない」(アンナレーナ・ベルボック党首)として工事の中止を求めているほか、与党のキリスト教民主同盟(CDU)内でも、ノルベルト・レットゲン下院外交委員会長が「『2』が完成すれば、プーチン・ロシア大統領が正しい政策をとっていると最終的に認めてしまうことになる」と述べて、工事中止要求を示唆した。
メルケルの本音としては、95億ユーロ(1兆2000億円)の巨費を投じ、全工事区間の94%が完成したプロジェクトを破棄させることは難しいだろう。また、ドイツが進める脱原発、脱石炭政策は、ガス発電の増強を前提にしており、影響は深刻である。
メルケルの取り得る対応は、「時間稼ぎ」という見方が出ている。米国の大統領選挙まで残りわずかであり、政権交代を期待しながら、積極的な対応をしないまま待つ。民主党政権に代われば、少なくとも米国内の雰囲気は、多少は変わるかも知れない。
また、ドイツ政府が工事の停止を何らかの法的手段を使って行えば、ノルトストリーム社や関連企業から将来、損害賠償を求められる可能性もある。今のままなら、米国の制裁の脅しが工事中止の原因として、提訴の対象は米国政府になるだろう。そんな読みもあるとも報じられている。
ロシアに対してはナワリヌイ事件の真相解明を求め、その回答を待つ。もっとも、これまでロシア政府の関与が疑われる暗殺(未遂)事件はしばしば起きているが、真相究明は全くなされてこなかったから、真相解明につながるロシアからの回答は期待できない。あくまでも、「時間稼ぎ」のための真相解明要求である。
完成は遅れるが、いずれ工事を再開できると見越して、今は隠忍自重の時、とドイツ人は思っているのではないか。ドイツの指導者層も世論も、プロジェクトを廃棄させないだけの狡知は持ち合わせているのだろう、というのが私の見立てである。