気候科学と疫学
-科学がイデオロギーになってはならない-
有馬 純
国際環境経済研究所主席研究員、東京大学公共政策大学院特任教授
筆者が経産省で国連地球温暖化交渉に関与している頃、何度となく聞かされたフレーズが「地球とは交渉できない」「科学の声に耳を傾けよ」というものだった。本欄における杉山大志氏の一連の投稿において明らかなように気候変動問題の科学的知見には不確実なものも多々ある。しかし科学を錦の御旗にかかげた上記のような声は1.5度特別報告書やグレタ・トウーンベリ効果もあり、ますます強まるばかりである。科学とは本来、疑問、反論にオープンであるはずなのだが、「絶対的正義は我にあり」との立場に立ち、異論にはおしなべて「気候懐疑派」とのレッテルを貼るような原理主義的主張を聞いていると、気候科学が宗教化しているのではないか印象を持つ。コロナ禍は「科学の命令に従え」という議論を更に強めているような印象も持つ。事実、環境派はコロナと気候変動問題を同列に論じ、「気候変動についても科学の声に真摯に耳を傾けないと手遅れになる」という議論を展開している。しかし「このままでは死者が40万人を超える」という西浦北大教授の数理モデルが現実と大きく乖離していたことは記憶に新しい。気候モデルの過去の実績を見ても疑問符がつく。
そのような中、7月13日のドイツ「Die Zeit」紙に作家テア・ドルンの書いたコラムが掲載された。彼女は科学者ではないのだが、ドイツ語の記事の英訳注1) を読むと「我が意を得たり」と思うと指摘が多々あったため、ここに拙い仮訳を掲げたい。日本語の自然さを保つため、直訳すると若干回りくどい表現を丸めたことをご了承願いたい。
(以下仮訳)
説教するのではなく研究せよ(Thou Shall Not Preach, But Research)
科学者は教条的であることではなく、疑うことにおいて優れているべきである。しかし気候変動をめぐる議論では科学者がイデオローグになってしまったケースが見られる。この惨状は疫学をも脅かしている。本稿はそれへの警鐘である。
世俗主義の社会の最も価値ある業績は教会と国家の分離である。高度技術社会の最も憂慮すべき傾向は科学と国家を可能な限り合致させようという願望である。気候変動がつきつける難問により、政策担当者は「科学」に耳を傾け、その勧告を遅滞なく実施すべきであるとの声が近年強まっている。
コロナの世界的流行により、この傾向は更に強まっている。科学と政治を支配する科学の聖職者(scientific clergy)に導かれたテクノクラシーを望む声が社会の各方面で強まっている。
「科学への信仰は我々の時代の支配的な宗教になっている」。これは狂信的な陰謀論者の言葉ではない。1959年から1961年にかけて「科学の視野」とのテーマの下で物理学者、哲学者、平和主義者が連続講義を行ったがその冒頭にカール・フリードリッヒ・フォン・ヴァイツエッカー(注:ドイツの物理学者・哲学者)が行った講義からの引用である。これは60年前の言葉であるが、今日、我々が理解すべきことは、科学がいかなる面で宗教的信仰の後をうまく引き継いできたか、いかなる面で宗教的遺産を背負わないよう留意せねばならないかという点である。
現代科学が自然に関する知識、制御という面でいかなる宗教よりも優れているということを高度技術社会に暮らす人が否定すれば、それは馬鹿げているとしかいいようがない。スマートフォンを手に持ちながら聖書の方が進化論よりも人類の起源をより正しく説明している主張する人は非合理的な教条主義者だ。しかし非合理的な教条主義者と理性的な懐疑論者の間には天地ほどの違いがある。だからこそ伝染病モデルや気候モデルに疑問を表明する人を「気候変動否定論者」、「コロナ否定論者」と直ちに中傷することがあってはならない。
宗教と異なり、近代科学が成功したのは疑問、批判、自己訂正にオープンであり、冷静で客観的に検証可能な主張を行うことを要求してきたからだ。この意味において厳密に合理的である場合にのみ、科学は我々の祖先たちが「奇跡」としか考えないような自然や運命の制御を可能にする。
科学は驚嘆すべき力を有しているが、科学が将来を自由に操る奇跡的な力を有するとの誤った信仰を持ってはならない。絶対的な確実性を獲得し、自分の運命をコントロールできるという理由で科学を売り込む人は、厳密な科学から遊離し、断罪と救済の伝道師(preacher of damnation and salvation)になってしまっている。
気候変動に関する議論では卓越した科学者が高位の伝道師(high priest)に変容してしまった事例を目にしてきた。コロナを恐れる人々、なすすべのない政治、人目を引く見出しを好むメディアの圧力により、ウィルス学や疫学の分野でこのような変化が生じたら致命的である。
2019年の夏、著名な気候研究者であるステファン・ラームストロフは「人間は地球のコントロールを失っている」というタイトルで珊瑚の枝枯れに関する小論をデア・シュピーゲルに載せ、「この生態系の崩壊を放置することは全く容認できないのみならず、自然へのコントロール喪失の第一歩であり、全てが密接に相関し、相互依存関係にある地球の生態系を崩壊させる最初のドミノになる」と書いた。たとえ言葉使いを違えたとしても、この見解は馬鹿げた、非常に疑わしい仮説に立つものだ。一方でラームストルフは人類が地球システムをコントロールしてきたかのごとく装っているが、もともと有していないものをどうやって失うというのか?他方で生命には予測可能なものもカオスなものもあるのに、彼は地球上のあらゆる生命を機械的なドミノ効果のイメージに単純化している。ドミノを一つ倒せば一連の結果を完全に予想できるというわけだ。
こうしたやり方の巧みなところは、地球の気候のように高度に複雑なシステムへの恐れを、システム崩壊の原因となる人間への恐れに変形させていることだ。恐怖を自責の方向にシフトさせることにより、人間が機械的なシステムの中で、動揺することも列から外れることもなく、あたかもドミノの札のように振舞えば、コントロールの見通しが立てられる。人間の行動はあたかも物理量のように扱われ、その結果を推計し、天体の軌道のように正確に予想することが可能になる。
4月半ばにハンス・ヨアヒム・シェルンフーバーがフランクフルター・アルゲマイネ紙に論考を発表した。物理学者であり、ポツダム気候研究所の創立者であり、長らくドイツ政府の気候政策のアドバイザーを務めている彼はパンデミックの専門家に名前を連ねている。彼は新型コロナの流行を厳密に予想可能な現象として再解釈する。人びとが無条件で「科学」を信じ、科学の命ずるところに服従して行動すれば、パンデミックの動きをコントロールできると宣言できるわけだ。
シェルンフーバーは「先進的な研究機関による疫学モデル計算を使えばどんな国でも今後数週間、数ヶ月、数年間のコロナの動きを水晶球のように知ることができる。市民、専門家、企業化、政治家は今やどの国が感染症のどのステージにいるか等を色とりどりの表でシェアすることが可能である。微小な病原菌は為政者の中で反科学的な馬鹿(anti-scientific fools)を罰し、合理的な者の正しさを確認している」と述べている。
米国の現大統領のことを考えれば、読者はこの発言に即座に同意したくなるかもしれない。しかしミネソタ大学の伝染病研究センターの疫学者たちが4月末にCOVID-19について発表したステートメントの前文を読めば同意するわけにはいかないだろう。
「ウィルスは備えのない世界を席巻した。その動向は極めて予測困難であり、パンデミックを収束させるエンドゲームがどのような形になるかを予測できる水晶球など存在しない」
我々はこれらの研究者たちにも「反科学的な馬鹿」との烙印を押すべきだろうか?
その反対である。我々は水晶球のマジックや完全なコントロールという幻想を否定する学者がいることに感謝してもいい。なぜならウィルス学者、疫学者に対して、占い師になり、正しい判断基準に沿わない主張を展開すべきだとの圧力が高まっているからである。
ウィルス学者のヘンドリック・シュトレックがドイツのトークショーで「疫学モデル計算で、たった一つの要素の判断を間違えただけで、全ての結果はトランプの家のように崩壊する」と述べたところ、化学者であり科学ジャーナリストであるマイ・ティ・ニュエン・キムから強い抗議を受けた。彼女は自分のYou Tubeチャンネルにおいて「疫学者の重要な仕事とそのモデル計算に対する一般人の信頼を揺るがすものだ」とシュトレックを強く批判した。
民主主義の成否は諸問題を合理的かつ現実的に処理することに依存する。そのためには政治家は人類のもたらす危険に警告を発する者を含め、科学アドバイザーを必要とする。しかしクリスティアン・ドロステン(注:ドイツのウィルス学者)が繰り返し述べているように、科学者は目前の政治的決定プロセスからは距離をおくべきだ。ハンス・ヨアヒム・シェルンフーバーは自らを活動家科学者(activist scientists) あるいは良心主義者(Conscience-ist)と称しているが、こうしたコンセプトは啓蒙時代以前の考え方への逆行である。「科学のもとに団結せよ!」といったスローガンをかかげ、運動参加者(crusaders)は聖なるミッションへの忠誠の誓いを押し立てるかもしれない。しかし、科学に仕えるのであれば、敵意にも負けず、断固として批判的な合理主義と周到な懐疑主義を堅持する科学者のために戦わねばならない。
昨今、インターネットをにぎわす陰謀論をみれば、非合理主義が台頭していると言わざるを得ない。いかに自分の主張に確信を持っていたとしても、科学がイデオロギーのトンネルに入ってしまえば、この恐ろしい動きを止めることはできない。民主主義における活動家として知的に同意できない分野においては自分の信ずるところのために闘わねばならない。「科学に従え」という誤ったコンセプトを魔法の槍のように掲げ、反対者を「反科学の否定論者」と決めつけ、彼らを辱めることによって黙らせていたのではだめだ。それは科学とイデオロギーの、そして合理と非合理の境界を曖昧にするだけだ。
科学に救いを期待し、科学者の救いの言葉を待ち望む人びとは、まともな科学者であれば本当の意味の心の平和も、全て上手くいくといった信仰も提供できないことを知るべきだ。近代科学は形而上学ではなく、自然科学を起源とするものである。したがって未知のものへの恐れ、死の恐怖をどうすればよいか、自分が自らの運命の主人であるのみならず、死を免れない運命にあるという事実とどう平和に折り合っていくか等について科学は答を持ち合わせていない。
人間が冒す最も悲劇的な行動の一つは、死を恐れるあまり、自殺をすることである。民主主義が冒す最も悲劇的な行動の一つは、自然の力を受け入れることを恐れるあまり、聖職者の科学が命ずる厳格な行動ルールに自ら屈服すること(self-submission to the rigid rules of action of a clerical science)である。
(以上)
文中、テア・ドルンが指摘している「反対者を反科学の否定論者と決め付け、彼らを辱めることによって黙らせる」ということは現実に起きており、それは筆者が「温暖化懐疑論・否定論について」注2) で書いたとおりだ。コロナに対する恐怖、不安がこの傾向に拍車をかけないことを切に望みたい。