新型コロナウィルスと地球温暖化問題
有馬 純
国際環境経済研究所主席研究員、東京大学公共政策大学院特任教授
今や世界中、右も左も新型コロナウィルス一色になっている。状況は日を追って変化しており、終息の見通しも立っていない。新型コロナウィルスの影響は人々の生命、健康にとどまらない。新型コロナウィルスへの対応措置により、世界経済が大きく減速する可能性が現実化している。外出禁止令や工場の操業停止は経済活動の事実上の停止を意味する。3月9-13日で世界の株式時価総額が10兆ドル失われたといわれ、個人消費を含む実体経済への悪影響へのマイナス影響も懸念される。
本サイトの中心課題である地球温暖化問題への影響はどうなるか?新型コロナウィルスが地球温暖化及びその裏腹の関係にある世界のエネルギー情勢に与える影響は問題の深刻化の度合い、終息時期等に大きく左右されるため、現時点でかくたることは言えない。
しかし短期的にはその発生源である中国の経済停滞、更には感染者の世界的広がりによる世界経済の停滞によってCO2排出量が前年比減になることが予想される。例えば中国の場合、2月のCO2排出量は前月比25%減になったと言われている注1) 。中国から世界に波及した経済停滞はエネルギー需要の低下をもたらす。とりわけ外出禁止令や国境閉鎖は国内外の交通需要を大きく減退させ、運輸燃料、航空燃料の消費減をもたらす。これらはいずれもCO2排出を押し下げることになる。この状況が続けば、2008-9年のリーマンショック以来の世界のCO2排出減になるだろう。
皮肉なことであるが、これは温室効果ガス削減に最も効果があるのは経済停滞であるということの証明でもある。もとよりこれは政府の長期戦略にいうところの「環境と成長の好循環」では全くない。「新型コロナウィルスは経済の縮小、自給自足化、移動の減少等、環境活動家が望むものを全てもたらした。彼らはさぞ満足なことだろう」といった皮肉な見方もある注2) が、それはフェアな見方ではないだろう。
新型コロナウィルスが短期的にCO2排出減につながるとしても、国際的な温暖化防止努力にとっては逆風であるという見方は強い注3) 。
第一に各種の国際会議への影響である注4) 。2020年はパリ協定実施の初年にあたり、COP26議長国の英国は「野心COP」を掲げ、プレCOP主催国のイタリアと共に各国に対してNDCの引き上げを強く働きかける算段を立てていた。しかし新型コロナウィルスにより国際会議が軒並みキャンセルとなっており、各国間の移動そのものも麻痺状態になりつつある。これは今年末に向けての国際的な世論形成にとって大きな足かせとなる。例えば6月にドイツ・ボンで予定されている補助機関会合が予定通り開催されるのか全く予断を許さない。9月にライプチヒで予定されているEU・中国サミットはEUが中国に対してNDC引き上げを働きかける重要な機会だと見込まれていたが、現下の情勢はそれに向けた準備を大きく阻害している。プレCOPの主催国となるイタリアも足元の状況を考えれば国際会議をホストするどころではない。11月のCOP26への影響は未知数である。
第二に新型コロナウィルス問題の深刻化により、政府、国民の温暖化問題への関心が低下することである注5) 。環境関係者はグレタ・トウーンベリの出現により、昨年以降、世界的に盛り上がった温暖化防止へのモメンタムが新型コロナウィルスによって大きく減退することを懸念している。新型コロナウィルスによる経済停滞が深刻化すれば、政府・国民の関心は国民生活の維持、景気回復に集中するのは当然のことであり、長期の問題である温暖化防止については「とりあえず横においておく」ことになりかねない。
第三に新型コロナウィルスによる経済危機からの回復過程でCO2のリバウンドが生ずる可能性が高いことである。リーマンショックで一時的に減少した世界のCO2排出量が再び増加に転じたことは記憶に新しい。衛星データによると中国各地でNOx濃度が上昇傾向にあり、これは中国で経済活動が再開している兆しであるとの報道もある注6) 。2020年のCO2排出量が前年比減としても、新型コロナウィルスショックから立ち直れば、経済と共にCO2排出量もリバウンドすると考えるのが自然だろう。
第四に原油価格低下の影響である。世界経済の停滞とサウジ・ロシアの減産合意失敗によって原油価格は一時30ドル/バレル近くまで下落した注7) 。トランプ大統領がSPR積み上げを指示したことにより、やや持ち直しているが、需給両面からの価格引き下げ圧力はクリーンエネルギー自動車の購買意欲を低下させ、再生可能エネルギーの競争力を相対的に低下させることになるだろう。化石燃料価格の低下は温暖化防止という観点からは逆風となる。
環境関係者の中には、新型コロナウィルス禍によってテレワークやテレビ会議等が新たなビジネスプラクティスとして定着すれば、低エネルギー消費パターンへの変化のきっかけになるのではないか、景気回復策としてグリーンニューディール的なクリーンエネルギー分野への資金投入を行い、温暖化ガスのリバウンドを防ぐべき、等の見方もある。新型コロナウィルスのピンチをチャンスに変えるべきだという発想だ。しかし各国は差し迫った新型コロナウィルスの脅威の前に温暖化問題に顧慮する余裕を失っている側面の方が強いのではないか。
もともと普通の人々は温暖化防止よりも教育、ヘルスケア、雇用機会を重視する傾向が強い。2013年に国連が実施したMy World では1位が教育、2位がヘルスケア、3位が雇用で、温暖化防止は最下位だった注8) 。
2020年時点で進行中の最新のサーベイ結果注9) を見るとパリ協定合意のモメンタムもあり、気候変動の順位は上がっているが、ヘルスケア、雇用、教育のトップ3は変わっていない。コロナ禍はまさしくヘルスケアと雇用と両方に関わる問題であり、政府、国民の関心が急傾斜することも驚くに当たらない。安倍総理が新型コロナウィルスの影響で生活が困窮している世帯の電力料金支払い猶予に言及した注10) ように、経済停滞による可処分所得の低下は、温暖化対策によるエネルギー価格の上昇に対する政治的受容性を低下させることになるだろう。
より巨視的に考えると、新型コロナウィルス問題は人の移動の自由を基礎とするグローバリズムに冷や水を浴びせることとなり、国境管理、ひいては国民国家の重要性を再認識させ、一国主義の台頭を後押しする可能性がある。温暖化対策を最優先課題にかかげ、グローバリズムとリベラルな価値観でトランプ政権に対峙してきたEU諸国が相次いで国境閉鎖を余儀なくされているのは皮肉な光景である。温暖化問題はグローバリズム、リベラルな価値観と強い親和性を有するものであり、新型コロナウィルスによってグローバリズムが後退することは温暖化問題の追求にも悪影響を与える恐れが強い。
色々考えてみると新型コロナウィルス問題は一時的に温室効果ガス削減をもたらすとしても、温暖化アジェンダの追求という点では悪影響の方がはるかに大きいように思える。とにもかくにもまずは目前の新型コロナウィルス問題の克服とダメージからの回復に注力するしかあるまい。