日本文明とエネルギー(10) 日本人の命

日本人の命の謎


認定NPO法人 日本水フォーラム 代表理事

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 2020年4月現在、人類は新型コロナウイルスと懸命に戦っている。20年前、私は日本人の命の物語を記述した。それを新型コロナウイルスと戦っている全ての人に敬意をもって捧げます。

日本人の寿命の怪

 51歳ごろ、大阪に勤務していた時、日本人の寿命について調べていた。
 単に調べていたのではなく、水道の普及が日本人の命に好影響を与えたかという仮説で調べていた。統計が整理されている明治以降の日本人の寿命をグラフにしたところ、奇妙なことに気がついた。
 日本人の寿命は大正以降どんどん伸び、今では世界でNo.1を誇る長寿大国となっている。過去100年間の日本人の寿命の伸びには驚かされる。
 奇妙だと思ったのは、寿命の急速な伸びにではない。明治末期から大正10年頃にかけて、寿命が低下傾向になっている。さらに不思議なことに、大正10年前後で最低値の42.7歳になり、その後は一転して上昇し現在に至っている。その大正10年前後でのV字反転が奇妙であった。平均寿命42歳とは現在のアフリカの最貧国レベルの数字以下である。
 大正10年頃に何かが起こった。この大正10年前後に、日本人の寿命に重要な影響を与えた何かがあったはずであった。
 国民の寿命は、乳幼児の死亡率に大きく依存している。そのため、乳幼児の死亡数の統計を当たった。

乳幼児の死亡率

 乳幼児の死亡率と日本人の寿命は、やはり密接な関係を持っていた。
 (図―1)で、乳幼児の死亡率と平均寿命の曲線を重ねた。これを見ると、乳幼児の死亡率と平均寿命は見事に反対の相関になっている。

 乳幼児の死亡率だけでなく死亡の絶対数を見ても、明治末期から大正10年頃まで増加し続けている。そして大正10年を境に、乳幼児の死亡は減少に転じている。単に減少に転じたのではない、劇的に減少に転じている。
 乳幼児の死亡数調査は、21世紀の現在まで継続している。(図―2)が、乳幼児の死亡数に推移である。
 この大正10年の変化点は、ただ事ではない。日本社会の保健衛生の特筆されるべき歴史的な出来事があったに違いない。それを調べるため、出張で上京するたびに、当時の厚生省の図書館へ足を運んだ。
 しかし、厚生省の図書館で調べた限り、大正10年前後に厚生行政で記録されるべき保健衛生の出来事、医学界で記念されるべき画期的展開は何もなかった。
 大正10年を境にして、あれほど乳幼児の死亡が減少に転じたのに、何も記録がなかった!
 この疑問は、胸の奥底に沈んだままになった。

謎が解け、また謎に

 1年後に、その謎は偶然に解けた。
 ある日、別件で東京湾岸のお台場へ行った。そこで偶然、東京都水道100周年記念展が開催されていた。時間つぶしでブラブラと見学をした。水道展は子供向けの軽いタッチの催し物であった。
 しかし、あるプラントメーカーの協賛展示の前で足が凍りついた。そこには水道の歴史年表パネルが架けられていた。その年表は、民間業界から見た100年の歴史であった。
 大正10年のところに「東京市で水道の塩素殺菌が開始される」とあった。
 大正10年に塩素滅菌が開始された!脳細胞がスパークしたのを記憶している。
 「水道の塩素殺菌」これが、大正10年の謎の解であった。
 水道水が塩素殺菌されて、水道水はやっと安全になったのだ。殺菌されない水道は、危険極まりない。水道の生水はさまざまな雑菌を含んでいる。大人は腹をこわす程度で済むが、体力のない乳幼児にとっては命の問題となる。
 改めて明治以降の近代水道の歴史を調べてみた。
 驚いたことに水道の供給は、塩素殺菌が始まる30年以上も前から開始されていた。

危険な水道水

 明治20年(1887年)横浜市で、日本最初の水道が給水開始された。明治22年に函館市、明治24年に長崎市、明治30年に大阪市、明治31年に東京市、明治32年に広島市、明治33年に神戸市、明治38年に岡山市、明治39年に下関市、明治40年に佐世保市と次々に水道が開始されていった。
 ちょうどこの頃ヨーロッパでは、ドイツ人のローベルト・コッホが「感染症には、目には見えない微生物の細菌が関与している」と主張していた。1882年には結核菌を、1883年にはコレラ菌を、その後もペスト菌を発見し世界中に衝撃を与えていた。明治38年(1905年)コッホは、ノーベル生理・医学賞を受賞している。
 北里柴三郎はコッホに師事し細菌学を日本に初めて紹介した。しかし、水道分野で細菌学が現実化するのは大正10年(1921年)の塩素殺菌まで待たなければなかったのだ。
 つまり、明治20年から大正10年までの間は、水道を普及すればするほど、危険な水を広めてしまったことになる。その期間は、30年以上にも及んでいる。
 (図―2)がその痛ましい歴史の図である。
 大正10年の謎は解けたが、また疑問にぶつかってしまった。
 何故、1921年(大正10年)まで塩素殺菌をしなかったのか。塩素殺菌の効果は(図―2)でも明らかである。「細菌」という知識は、20世紀初頭には日本に入ってきていた。
 それなのに何故、30年間も水道水は何も処理されず放置されていたのか。
 また、謎を抱え込んでしまった。

ロシア革命と液体塩素

 その2年後、ある会合があった。多業種の寄り集まりの気楽な飲み会であった。
 ある重化学メーカーのエンジニアと隣になった。酒の肴でこの大正10年の疑問を彼に話した。
 「どうして大正10年まで、水道水が塩素殺菌されなかったのか?」という謎である。
 2週間後、彼から郵便物が届いた。古い記録のコピーが入っていた。それは現・保土谷化学工業㈱(当時は(株)程谷曹達工場)の社史の写しであった。
 彼からの手紙には、あの大正10年の謎が判ったこと。それは大正7年に「液体塩素が開発」されたことが記されていた。
 その社史のコピーを読むと「シベリア出兵に際し、陸軍から毒ガス製造を依頼された。それに応じて液体塩素を開発した。しかし、シベリア出兵はすぐ終了してしまったので液体塩素の使い道がなくなった。これの民生利用として水道水の殺菌に転用することとなった」という内容が、文語体で記されていた。
 シベリア出兵は大正8年(1919年)に開始された。その2年前、大正6年(1917年)にロシア革命が起きた。シベリア出兵の名目は、トロツキー率いるボルシェビキ革命赤軍と闘っていたチェコ軍団の救出であった。この出兵は皇帝側の白軍を押し立てて、満州鉄道と東部3州の支配を強めようとする狙いもあった。
 当初はアメリカと共同で作戦を展開した。しかし、日本が本格的な3個師団7万人を投入したのを見て、アメリカは日本を警戒し始めた。結局アメリカはシベリア出兵に反対する立場を取るようになった。日本はアメリカの強硬な反対により、大正10年シベリアから撤兵を開始し、大正11年に撤退を完了した。
 このシベリア出兵という歴史の中で、液体塩素が生まれていた。

液体塩素の大変身

 塩素ガスは猛毒である。敵を殺傷する兵器として以前から注目されていた。ただし、塩素ガスは気体で流動性があり、扱いが難しい。ガス気体のままでは武器になりにくい。液体にすれば、性状は安定し、容量も小さく扱い易くなる。そのため液体塩素の開発が要求され、化学メーカーの(株)程谷曹達工場がそれに応えた。
 ところが、このシベリア出兵はあっという間に終了してしまった。液体塩素の製造プラントは無駄になってしまった。程谷曹達の関係者は、製造プラントの前で呆然としたにちがいない。
 しかし、最高の軍事秘密兵器として生まれた液体塩素が、水道水の殺菌という民生利用という活躍の場を得た。
 軍事機密の液体塩素の大変身であった。これも不思議なことであった。
 大正10年、陸軍がシベリアから撤退と同時に間髪おかず、液体塩素を水道水の殺菌のために転用している。あまりにもタイミングが良すぎる。まるで陸軍がシベリアから撤退するのを待ちかまえていたかのようだ。
 一見してきれいな水道水に、細菌という病原体が存在している。この知識はある程度一般国民にも広まりつつあった。しかし、その細菌を的確に死滅させる方法を知っていたのは、生化学の最先端の高度な専門知識を持つ者だけである。

いったい誰が

 塩素は水の殺菌に有効である。しかし、塩素はガスのままだと危険で取り扱いにくい。液体塩素なら容易に量を調節でき、水道水殺菌のため制御できる。
 当時の日本社会で、この知識を持っているのは半端な人間ではない。
 また、液体塩素の使用については、社会的制約もあった。いくらシベリア出兵が終わっても、毒ガス兵器としての液体塩素は国家のトップシークレットであった。兵器として開発された液体塩素は、陸軍の厳しい監視下にあったはずだ。陸軍がシベリアから撤退するか、しないかの時に、その液体塩素が簡単に民生に転用されている。
 一体誰が、どのようにして、この毒ガス兵器を民生に転用したのか?
 これが最後の謎となった。
 この謎は、手強かった。東京都の水道局に問い合わせたが、そのような昔の話は相手にしてもらえなかった。陸軍内部の当時の記録などもちろん見つけられない。
 大正10年に、水道水が塩素殺菌されたという事実。その殺菌用の液体塩素は、兵器として開発されたという事実。これらの事実に到達できたのも、まったく偶然であった。
 もうこれ以上の謎解きは、あきらめていた。
 当時の程谷曹達工場が、一生懸命に東京市へ液体塩素の売り込みをしたのだろう、という程度で自分自身に対してお茶を濁していた。

後藤新平

 その半年後、休日を利用して首都移転の資料を読んでいた。首都を議論する際には、どうしても後藤新平を避けて通れない。

 大正12年、帝都は未曾有の大地震に見舞われた、関東大震災である。その年、帝都復興院総裁となったのが後藤新平であった。彼は震災後の壮大な東京復興計画を立案し政府に提案したことで有名である。
 後籐新平を本格的に調べ初めた。
 何故、後籐新平が帝都復興院総裁に任命されたのかが納得いった。彼は大震災の3年前の大正9年、東京市長になっていたのだ。
 大正9年に東京市長になっていた!と言うことは、大正10年、東京市で最初に水道水を塩素殺菌したときの市長であったのか?
 事実そのとおり、後籐新平は東京市長であった。さかのぼって後藤新平の経歴を追ってみた。
 後藤新平は「大風呂敷」というあだ名があったように、そのイメージは奔放であった。台湾総督府民政長官や満鉄総裁時代に実行したインフラの整備が有名なため、法科か土木工学出身だと思い込んでいた。
 彼は岩手県水沢市の下級藩士の家に生まれ、福島県須賀川医学校を卒業後、内務省衛生局に入っている。そこで彼は自費でドイツに留学している。自費でドイツへ行った目的は「コッホ研究所」で細菌の研究をすることであった。
 世界最初の細菌研究を成し遂げたあの「コッホ研究所」へ、後藤新平は自費で行っていた。コッホ研究所で後藤新平は、医学博士号まで獲得している。彼は当時の日本で北里柴三郎に匹敵する細菌学の権威者であった。後籐新平の官界や政界での派手な活躍に目を奪われていたが、彼の人生の立脚点は細菌学であった。
 細菌学の権威が東京市長だった。
 夢中になって後藤新平の経歴を追った。彼は東京市長になる2年前、大正7年に外務大臣に就任していた。大正7年はシベリア出兵があった年である。詳細に彼の動きを調べた。
 なんと彼はシベリアへ行っていた!シベリアの現地に出向き、シベリア出兵作戦の中心人物でもあった。
 細菌学の専門家・後藤新平は、そのシベリアで「液体塩素」と出会っていた。その2年後、彼は東京市長となった。
 東京市長になった後藤新平は、東京市の水道施設を視察した。そこで細菌を大量に含んだ生水が、市民に向かって送り出されているのを目撃した。それを目撃した後藤新平が「液体塩素で水道水を殺菌すべき」と考えたのは必然であった。
 後籐新平は陸軍の横やりを抑え、国家機密である液体塩素を民生転用した。その転用する「権力」も備えていた。
 すべてのジグソ-パズルのピースがはまった。謎がストーンと解けた。

偶然の文明

 日本の安全な水の原点は、シベリア出兵と後藤新平にたどり着いた。
 あのシベリア出兵がなかったら、この液体塩素の誕生はもっと先になっていた。さらに後藤新平という人が、日本史の舞台に立っていなかったら、水道水の塩素殺菌はもっと先送りになっていた。それまでの間、何十万人、何百万人の幼児が水道水で死ぬことになった。
 「細菌学者」後藤新平は「シベリアで液体塩素」と出会った。彼は「東京市長」となり、東京水道の現状を目撃した。「権力」を握っていた彼は、陸軍を抑えて軍事機密の液体塩素を民生へ転用させた。
 これらの条件の内、どの条件が欠けていても、大正10年に安全な水道水の誕生はなかった。日本はこの大正10年から、世界でもまれな長寿大国へ向けてスタートを切った。(図―3)で、水道の普及と平均寿命の関係を重ねた。
 文明の大きな出来事も、このような小さな個人の運命の偶然の上に成り立っている。何とも不思議な思いにつつまれてしまった。