環境問題における「空気」の研究

-山本七平「空気の研究」からー


国際環境経済研究所理事長

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今なぜ「空気の研究」なのか

 山本七平氏の「空気の研究」(昭和52年文芸春秋)が、昨年末、初版から四十年を経て新装版(文春文庫)となって刊行された。我が国において「空気」はある種の絶対権力を持っており、「空気を読むこと(KY)」に汲々とする風潮があるが、昨年は「空気」に対する「忖度」が話題となったことから再版されたのだろう。

 山本氏は、我が国の意思決定は論理的判断基準(「科学的なデータ」)と空気的判断基準(「醸成された空気」)のダブルスタンダードになっており、通常、口にするのは論理だが、本当の決断は「空気が許さない」という空気的基準であると言う。
 この典型的な例として「戦前の海軍」と「光化学スモッグの公害」を取り上げている。

海軍の「空気」

 海軍の例は、第二次世界大戦末期、「戦艦大和がなぜ沖縄に向けて出撃したのか」である。サイパン陥落時にも大和出撃案が出たが、軍令部はデータに基づきこれを退けた。沖縄戦ではどうして反対を唱えなかったのか。
 文芸春秋(昭和50年8月号)の「戦艦大和」特集が本件をとりあげ、「陸軍の沖縄総攻撃と呼応し、(大和は)敵上陸地点に切り込み、ノシあげて陸兵になる」と言われると、これは「空気」の決定となり、もはや議論の対象にならなかった。「当時も今も(大和の)特攻出撃は当然と思う」と軍令部次長・小沢治三郎中将は語る。

公害の「空気」

 公害については、昭和45年、東京の立正高校の生徒たちが光化学スモッグの被害を訴えたことをきっかけに、自動車排ガスが槍玉に挙がった事例である。
 山本氏は、文芸春秋(昭和50年8月号)に小説家の北条誠が投稿した「自動車は果たして有罪か」を紹介している。光化学スモッグの原因が自動車排ガスに含まれるNOxであるとされ、労働衛生における工場内のNO2許容濃度が5ppmであったのに対して、環境庁が環境基準(一日平均)を一挙に250分の1である0.02ppmという世界で最も厳しい水準まで下げたことに疑問を感じている。
 北条氏は、美濃部東京都知事のもとで東京都公害研究所長をしていた柴田徳衛氏を団長に科学者で構成された七大都市自動車排ガス規制問題調査団が、「大気汚染の元凶=自動車」と決めつけた「魔女裁判」を批判している。

 また、「誤ったNO2基準に国際不信広がる」(正論(昭和50年10月号))において、清浦東工大名誉教授も以下の疑問を呈している。
 これは、米国環境保護庁および科学アカデミーが、「NO2が健康に悪い」とした日本の専門委員会の医学論文に「科学的誤謬がある」と指摘したのに対して、環境庁がこれを無視して返答しなかったことの理不尽さについてである。
 専門委員会という閉ざされた学者だけの会議において、ある学術論文が強く主張されると疑問を挟みにくく、また、一度決めたことを撤回しにくいのも「空気」のなせる仕業かもしれない。

 さらに「公害問題の真相を衝く」という連載をしてきた「実業の日本」誌 編集長の吉田信美氏は、「光化学スモッグが発生すると、瞬間的に自動車攻撃がはじまり、年末の国会では公害対策基本法が改正されて「経済の健全なる発展と調和を図る」という表現が削除されてしまった」と当時の異常な「空気」を述べている。

後日談

 その後、環境基準の達成が困難なこと、当時の疫学データ等の科学的知見が不十分であるとして、環境基準(一日平均値)0.02ppmは0.04ppm~0.06ppmに緩和された。
 NOxは大気中の窒素(N)が高温燃焼で発生する(サーマルNOx)ものと、燃料中の窒素の燃焼(フューエルNOx)で構成されており、自動車のみならず工場のボイラー、家庭・ビルの厨房など多岐の発生源がある。産業界は、発生メカニズムの解明から対策に向けた技術開発に多大の努力を払った。この結果、日本の環境技術は大きく飛躍し、世界に誇る環境を実現したことは間違いない。
 ところが、昭和48年に告示されたNOx環境基準は、こうした努力にもかかわらず昭和50年度ではわずか8%の達成にとどまるとともに、当時懸念されたNOxの発がん性も認められないことから昭和53年に上記の水準に改訂された。

「空気」に対処するには

 空気支配の原則は、「対立概念で物事を把握させない」ことにある。
 山本氏は「ある命題の相対性を排して絶対化すると、人間はその対象(「空気」)に支配され、それから自由になれない」という。
 最近の企業や官庁などの不祥事を考えると、組織風土に「空気」という絶対権を持った妖怪がいるかもしれない。
 したがって、「空気」に対抗するには、反対に「対立概念で対象を把握」すればよい。

 環境分野においては、「自分が正しいと思う手段(たとえば太陽光)が絶対で、石炭火力は悪だ」という議論が横行する。
 こうした場合、立ち止まって、対立概念を使った相対化が重要である。「環境と経済」「環境とセキュリティー」と相対化して考えてみるだけで「空気の支配」から逃れることができる。

 四十年前の著書ではあるが、今でも考えさせられる指摘である。

「空気」の研究
山本 七平 著( 出版社: 文藝春秋 新装版 )
ISBN-10: 416791199X
ISBN-13: 978-4167911997