ニカラグアはなぜパリ協定を「拒否」したのか


国際環境経済研究所主席研究員、東京大学公共政策大学院特任教授

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 昨年12月のパリ協定採択の模様を現場で、あるいはウェブキャストで見ていた方は、ファビウス外相が「パリ協定を採択する」と木槌をおろした後で、パリ協定への反対意見を数分にわたって開陳したニカラグアのことを覚えておられると思う。
 パリ協定採択に沸く会場の空気から一人遊離したかのように自論を述べ続けたのはポール・オキスト首席交渉官である。巨漢、口ひげのオキスト交渉官は一度見れば忘れられない印象を与える。彼は2009年のCOP15の終盤、ベネズエラ、スーダン等と共にコペンハーゲン合意採択をブロックし、「留意」に持ち込んだ立役者の一人でもある。

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COP21におけるオキスト首席交渉官

 ニカラグアはベネズエラ、ボリビア、キューバ等と共にALBAという交渉グループを形成しており、温暖化交渉の中でも最も先鋭的な反先進国、とりわけ反米的なポジションをとっている国である。日本の交渉ポジションとは大きな隔たりがあり、筆者が首席交渉官のとき、バイ会談などで意見交換をする機会もなかった。
 ところが2週間ほど前、そのオキスト首席交渉官と同じパネルに参加する機会を得た。2月に学生団体の主催するイベント(於東京大学)でCOP21についての報告を行ったところ、聴衆の中に在日ニカラグア大使がおり、「3月にオキスト首席交渉官が来日する。ニカラグアの見解についても是非、セミナーなどの場で説明する機会を設けてほしい」と言っていた。その話が発展し、「日本の明日を考える女子学生フォーラム」主催で、3月16日に再度、東大でイベントを開催することとなった。さすがにニカラグアの主張だけではバランスを欠いているので、COP21議長国であるフランスからフーリア在日フランス大使館一等書記官にもスピーチを依頼し、筆者は学識経験者としてパネルディスカッションに参加した。モデレーターには松本真由美東大客員准教授(当研究所理事)にお願いした。
 当日、初めて会ったオキスト首席交渉官は交渉中の強面なイメージとは打って変わったフレンドリーな人柄であった。しかし、オープニングスピーチの内容は十分に「強面」なものであった。そのポイントは以下の通りである。

温暖化は着実に進行しており、既に産業革命以降、1度温度が上昇している。2015年は最も気温の高い年であったが、2016年はそれをさらに上回るだろう。しかも1度上昇は地球平均であり、地域によっては2度から4度高いところが存在する。温暖化は異常気象を生み、北米、欧州、アジア、大洋州といたるところで被害をもたらしている。
パリ合意は産業革命以降の温度上昇を1.5度~2度に抑えるといっているが、各国のNDCを足しあげても、3.5度上昇につながり、2度にはとても収まらない。各国のNDCのままでは地球の排出総量は550億トンに達する。2度に安定化させるためには400億トン、1.5度に安定化させるためには340億トンにせねばならない。温度が3度上昇すれば20億人が水不足に悩むことになる。
このため、大排出国がもっと野心的な削減目標を掲げるべきであり、しかも5年後の見直しでは遅い。今すぐに見直すべきである。世界の排出量上位10カ国、20カ国で世界全体の排出量の72%、78%を占める。また上位20カ国のGDPが世界全体に占めるシェアは76%である。これに対しニカラグアの排出シェアは世界の0.003%に過ぎない。ニカラグアは温暖化には何の責任も無いにもかかわらず、その結果を甘受しなければならない。
パリ協定のもう一つの問題点は法的拘束力がないことである。目標値も資金援助も条約上の義務となっていない。「損失と損害」についても、パリ協定決定文の中で「責任や補償を伴わない」とされてしまったのは大きな問題。
ニカラグアとしては他の途上国に対し、パリ協定を批准しないよう働きかけると共に、国連人権裁判所への提訴を含む法的措置、市民運動の動員などあらゆる手段を講ずるつもりである。

 想像はしていたが、パリ協定の全否定とも言うべきものである。フランスのフーリア書記官のスピーチについては当然ながらパリ協定の意義を強調するものなので、ここでは割愛する。
 その後、パネルディスカッションに入ったが、オキスト首席交渉官のコメントで興味深いものをいくつか紹介しよう。

(ニカラグアはパリ協定を批准しないつもりかとの問いに対し)

ニカラグアは母なる地球を更に温暖化させることの「共犯者」となるつもりはない。

(パリ協定は各国の利害が衝突する難しい交渉の結果、できたものであり、現実を見据える必要があるのではないかとのコメントに対し)

自主的な枠組みでは実効性がなく、政治的な意志が伴ってない。先進国だけが行動するのではなく、途上国を含む主要排出国が削減目標を引き上げ、義務を受け入れるべき。
自主目標では野心のレベルが低くなり、それすら実現できていない。ODAの対GDP比0.7%がその好例。1000億ドルの資金援助目標も達成できていない。

(主要排出国が削減義務を引き上げ、義務を負えといっても米国や中国はそれを受け入れないのではないか、また各国のNDCは経済、雇用、エネルギー等の実情を踏まえて設定されたものであり、それをすぐに引き上げろといっても民主国家である以上、国民の理解が得られないのではないかとの問に対し)

米国が受け入れないからといって世界中がその人質になることは受け入れられない。各国が目標を引き上げる政治的意思を持つよう、プレッシャーをかけることが必要だ。
確かに各国の温暖化対策が進まない最大の理由は、国民の理解不足だ。市民や社会に対する教育が必要だ。
我々は孤立しているとは思っていない。正義を信ずる市民団体やNGOと共に歩んでいる。

 筆者にとって新鮮な驚きはニカラグアが先進国・途上国二分論に基づき、先進国だけが義務を負う京都議定書の単純な深堀りを求めているのではなく、中国やインドを含む主要排出国の目標深堀りと義務化を求めているという点であった。この点では彼の主張は実現可能性を横に置けば、ある意味、正論とさえいえる。
 しかし、オキスト首席交渉官の議論に決定的に欠けているのは、まさしく、その実現可能性の視点である。各国が国内でそれぞれ検討して出してきた目標を、「今すぐに大幅に引き上げ、義務にせよ」といっても実現するわけがない。米国や中国が義務化をのまない中で他の主要排出国が義務化を受け入れるとも思われない。ニカラグアは中南米で二番目に貧しい国であり、温暖化対策によるコストが国際競争力に与える影響を心配しなければならないような産業集積も無い。主要排出国に入っていないのだから、いかに非現実的な案であっても主要排出国の厳しい目標、義務を「堂々と」主張できる。永遠に政権をとることのない野党の「首尾一貫した」主張や、実施責任を負わないNGOの「理想主義的」主張に通ずるところもある。
 当たり前のことだが、国際交渉というものは、様々な国益がぶつかる中で、各国がそれぞれ不満を抱えながらも妥協することで妥結する。だからこそ圧倒的多数の国がパリ協定を歓迎したのであり、ニカラグアの働きかけによってどれくらいの数の国がパリ協定の批准を拒否するのかはわからないが、ほぼ全ての国がパリ協定を批准するであろうことは間違いないだろう。
 国際交渉の中で、自らの主張こそが正論であり、それに現実がついてこないのは現実のほうがけしからん、というのでは交渉局面での影響力を失うのみであろう。2009年にニカラグア、スーダン、ベネズエラがコペンハーゲン合意を攻撃している中で、モルジブの大統領が「島嶼国にとって1.5度目標が盛り込まれていないのは残念だが、自分はこれを受け入れる」と発言して会場に深い感銘を与えたのは、まさしくその対極をいったからだ。
 恐らくニカラグアはそうした点は百も承知であろう。オキスト首席交渉官は国連事務局にも勤務したことがある経験豊富な人物だ。主要排出国であればともかく、ニカラグアが参加しようとしまいとパリ協定の実施にとって何のインパクトもない。途上国の数の多さを考えれば、パリ協定に参加することでニカラグアが得られる便益も極めて限定的であろう。それであれば、エッジのたった主張をして国際的にニカラグアの見える化を図った方が、外交戦略としてよいと判断したのかもしれない。だとすれば、「パリ協定を拒否したニカラグア」というブランドネームが関係者の間に刻み込まれたのは間違いない。
 これまで直接やり取りすることのなかったニカラグアとの意見交換は、ほとんど全ての点でagree to disagreeだったとはいえ、なかなか興味深い経験だった。最後はがっちり握手して2時間半のセミナーを終えた。

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左より日本の明日を考える女子学生フォーラムの皆さん、筆者、オキスト首席交渉官、
フーリア在京フランス大使館一等書記官、松本理事

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