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EUETSは市場安定化リザーブで立て直せるか?


キヤノングローバル戦略研究所/IPCC第6次評価報告統括代表執筆者(イノベーションとテクノロジー)


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ETS立て直しの切り札として、EUは市場安定化リザーブを導入しようとしている。これは本当に切り札となるのか?それとも、立て直しは「政治的に困難」であるという、IPCCの否定的な予言が当たるのだろうか?

1.IPCCの厳しい評価

 あまり知られていないものの、2014年に報告されたIPCC第五次評価報告では、EUETSに厳しい評価が下っていた注1)

 温暖化対策について、環境経済学の教科書では、しばしば、排出量取引や環境税などの形で「炭素価格を設定する」ことが重要としてきた。これを受けて、鳴り物入りで導入されたのが、EU排出量取引制度(Emission Trading Systems=ETS)である。

 だが実際には、その排出権価格は低迷を続け、排出削減への効果は少なかった。これを受けて、IPCC報告でも、厳しい評価となった。すなわち、ETSの「効果は限定的」で、排出権の低価格は「構造的なものであり、対処することは政治的に難しいことが証明された」としている。ここで「政治的に難しい」ということは、EU諸国が経済状況・安全保障状況を考慮する結果、排出権価格を高く維持するような政策が採れなかったことを指している。以下、原文(訳は筆者による)を抜粋する:

 “ETSは意図されたほどに成功しなかった。ETSは国境を越えた排出量取引が機能しうることを示したものの、近年の恒久的な低価格は、追加的な排出削減についてのインセンティブを与えることがなかった。……13年末の執筆時点において、過剰な排出権を取り除くことによって低価格の問題に対処することは、政治的に難しいことが証明された。……ETSは、政治的に実施可能にするために、排出削減の効果を犠牲にする形で実施された。……ETSは長期的に信頼できる価格シグナルを形成できなかった。”(技術的要約及び本文14章より。日本語での解説はウェブ記事および拙著「地球温暖化とのつきあいかた」を参照されたい)。

 同報告では、低価格の問題に対処するために当局がとった様々な対応や、学界の提案についても詳しく紹介している。だが、多くの方法は考案できるものの、排出枠を厳しく設定し直すことには、政治的な困難がつきまとうという現実が突き付けられた訳だ。

 なお、筆者が欧州の研究者と議論をすると、「諸問題はあるが、“制度的な慣性”、つまり官僚組織の肥大化や既得権益があるために、欧州からETSが消えてなくなることは絶対にないだろう」、との意見がほとんどであった。これは日本にとっても重要な教訓と思った。

2.市場安定化リザーブは機能するか?

 排出権価格の低迷という状況を受けて、EUではETS立て直しが長く議論されてきた。そしてこの7月、切り札として、EUは市場安定化リザーブ(以下、単にリザーブ)を導入することを決定した。

 現在、EUETSには、20億トンの余剰の排出権が出回っている。リザーブの考え方の骨子は、市場に出回っている余剰の排出権について一定の範囲を決めて、それよりも多くの排出権が市場に出回っていればそれを減らし、少ない排出権しか出回っていなければ市場への排出権の供給を増やす、というものである。つまり、リザーブによって、排出権市場の需給調整をすることになる。

 具体的には、EU議会において、以下が決定された注2)

リザーブは、2018年に設立され、2019年に運営を開始する。
予見可能性を高めるために、排出権のリザーブへの組み入れと引き出しについて、明白なルールを定める。
毎年、一定の条件が整えば、オークション量の12%がリザーブに組み入れられる。
市場における余剰の排出権が4億トンを下回る場合、不足量がリザーブから引き出されてオークションに付される。

 今後、2018年の設立に向けて、リザーブの具体的な制度設計・運営と進んでいくことになるが、このリザーブは、本当にEUETS再生の切り札となるのだろうか? それとも、上述の「政治的に難しいことが証明された」という、IPCCの不吉な予言が当たるのだろうか?

 筆者は、市場安定化リザーブは、価格低迷の問題を解決するものにはならない可能性が高いのではないか、と思っている。それは、以下の理由による:

 リザーブの具体的な制度設計は未だ今のところ定まっていないが、まずは、リザーブが、一定のルールに従って「自動的に」市場に流通する排出権量を調整するようなメカニズムとして制度設計される場合を考えてみよう。

 このとき、運用を始めると、政治的な困難に直面する局面が予想される。なぜなら、温室効果ガス排出量は、エネルギー安全保障およびマクロ経済と密接に関係するからである。例えば、排出権価格が低迷して、ルールによれば排出権価格を引き上げねばならない局面にあるとする。だが、もしもそのときに偶々EUの対ロシア関係が悪化しているならば、排出権価格を引き上げてロシアの天然ガス輸出を有利にすることは、安全保障上、逆効果である、と非難されるだろう。

注1)
更にくわしくは拙著。http://wedge.ismedia.jp/articles/-/4163
注2)
EU議会ホームページ
http://www.europarl.europa.eu/news/en/news-room/content/20150703IPR73913/html/Parliament-adopts-CO2-market-stability-reserve
http://www.europarl.europa.eu/meetdocs/2014_2019/documents/envi/dv/ets_msr_annex_/ets_msr_annex_en.pdf

※本連載・報文は著者個人の文責に基づくものであり、いかなる所属・関連機関に責が及ぶものではありません。

 あるいは、もしも、経済状況が非常に悪い局面であるにもかかわらず、リザーブの機能によって高い排出権価格を維持することになれば、これもまた、政治的な非難を受けることになるだろう。

 このようなことが予想されるために、リザーブの制度設計にあたっては、3Eのバランスについて熟慮する過程が設けられ、完全に自動的ではなく、その時々の政治状況に応じた裁量の余地のある意思決定システムにならざるを得ないと思われる。

 では次に、そのような裁量の余地のある意思決定システムは、どのように設計できるだろうか。リザーブを運営する組織には、どの程度、独立した権限が設定されるのだろうか。これについても、あまり強力な権限を独立性の高い組織に引き渡すことについては、ポーランドなどの東欧諸国を中心に、多くの国が猛反対することは想像に難くない。このことは、これまでのEUETS改革における政治的対立状況について、有馬氏
http://ieei.or.jp/2015/04/special201212087/
http://ieei.or.jp/2015/04/special201212088/
が詳しく説明していることから、推察される。

 このように考えると、リザーブの運営にあたっては、一定のルールはもちろん定めるにしても、諸国がその意思決定に政治的な影響を及ぼし続けるような形に制度設計される可能性が高いのではないか、と予想される。そのようにして、安全保障や経済などの他の政治課題や諸国益との調整が図られることになるだろう。

 つまりは、リザーブが存在しても、それによって自動的に需給調整が図られるというわけにはいかず、これまでのEUETSと同様に、その運営にあたっては、諸国の政治的影響を逃れられないのではないか、ということである。

 これまでのEUETSでは、何らかの政治的イベントがあるたびに排出権価格が上下してきた。図は、世界銀行の報告書に掲載された、2014年の価格の推移である。そこでは、EUの意思決定プロセスにおいて、同年のEUETS改革における主要な争点であったバックローディング(当局による市場からの排出権の市場からの引き揚げ)について、何か政治的イベントがあるごとに、それに翻弄されるようにしてETSの価格が上下してきたことが示されている。

 そして、このようにして形成されてきた排出権価格は、4~7ユーロという低い水準に留まり、高く推移することは無かった。これがIPCCの指摘した「政治的困難」の実態である。リザーブが運営されるようになっても、似たような状況が続き、本質的に打開することは出来ないのではないか、と筆者には思われる。

EUETSの排出権価格とバックローディング提案の経緯

 EUETSの排出権価格とバックローディング提案の経緯

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