第2話「原子力の平和的利用」


在ウィーン国際機関日本政府代表部 公使

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原子力の平和的利用

 ウィーン国際センター(Vienna International Center)のほぼ中央に円筒形の建物(C棟)がある。この建物には、各種イベントが開かれる地上階のオープンスペースや郵便局、売店、会議施設があり、国際原子力機関(IAEA)の理事会もこの建物内で開かれる。
 このC棟4階の談話スペースの片隅に、透明なケースに入った農機具の鋤(すき)を模した彫刻がある。
 銀色の素材で作られたこの模型は、かつて南アフリカが秘密裏に進めていた核兵器開発計画で使われていた起爆装置の素材から作られたものである。その後、南アフリカは核開発を放棄、そのコミットメントの証として、1994年にこの彫刻をIAEAに贈呈した。横のプレートの末尾には、旧約聖書(イザヤ書)の一節が引用され、“And they shall beat their swords into plowshares, and their spears into pruning hooks. Nation shall not lift up sword against nation, neither shall they learn war any more.”(「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする(以下略)」)と記されている。原子力の平和的利用のシンボルとも言える彫刻である。

1鋤の彫刻

ウィーン国際センターの一角にある、南アフリカ政府からIAEAに贈呈された、
核兵器開発計画で使われていた素材による鋤(すき)の彫刻。(写真は筆者撮影)

「奪い得ない権利(inalienable right)」としての原子力の平和的利用

 「原子力の平和的利用(peaceful uses of nuclear energy)」という表現は、広島と長崎における原子爆弾の惨禍を歴史的経験としてもつ日本人にとっては、「平和」という言葉が核兵器を連想させる「原子力」という言葉と結びついていることから、違和感を覚えるかも知れない。そもそも「平和的利用」という表現自体が、原子力が「軍事的利用」から始まり、それを所与の前提としてきた特殊事情を物語っているともいえる。(平和的利用という表現が用いられる他の分野に、ロケットや衛星による宇宙空間の利用が挙げられる。宇宙利用の技術も、第2次世界大戦末期のドイツのロケット兵器から始まった。ウィーンには宇宙空間の平和的利用のあり方について討議する国連機関(国連宇宙空間平和利用委員会)もある。)
 とはいえ、アイゼンハワー大統領の“Atoms for Peace”演説に始まり、IAEAが設立されて以来約60年の間、原子力の平和的利用は国際社会において幅広く根を下ろしてきた。後述するように、原子力技術は、原子力発電のほか、医療、食糧・農業、水管理など様々な分野で活用されている。国際社会が直面する様々な開発、環境課題に対処する上で原子力技術に対する期待、特に途上国からの期待は極めて高い。
 1970年に発効した核兵器不拡散条約(NPT)でも、原子力の平和的利用について、すべての締約国の「奪い得ない権利(inalienable right)」であるとして、同条約のいかなる規定もこの権利に「影響を及ぼすものと解してはならない」としている(条約第4条)。核兵器国が行うべき「核軍縮(nuclear disarmament)」、核の軍事利用の拡散を防ぐ「核不拡散(nuclear non-proliferation)」と並んで、「原子力の平和的利用」はNPTの三本柱の一つとされる。NPT体制はこの三つの柱の間における各国の利害のバランス、「グランド・バーゲン」の上に成り立っている。この現実を踏まえることなく、核軍縮のみ、あるいは核不拡散のみを推し進めようとすることは極めて困難である。
 原子力の平和的利用は、国際社会が抱える開発、環境課題の対処のため、それ自体が重要であるのみならず、核軍縮、核不拡散を進める国際社会の努力に推進力を与える上でも重要な意義をもっている。

様々な原子力の平和的利用のかたち

 ひとくちに、「原子力の平和的利用」といっても様々な形態がある。大きく分けて、1)核反応の利用(主に原子力発電)、2)放射線の利用、3)同位体の利用、の3つのカテゴリーに大別できよう。
 第1の核反応の利用、特に原子力発電は、原子力の平和的利用として最も知られているものであろう。核分裂反応の際に発生する熱エネルギーを活用して高圧の水蒸気をつくり、タービンを回して電気をつくる活用法である。水蒸気でタービンを回す原理自体は石炭、石油、天然ガスを使った火力発電と変わらないが、燃料の調達、施設の安全・セキュリティ対策、使用済み燃料の処分など運営面では大きな違いがある。火力発電所が温室効果をもたらす二酸化炭素のほか、大気汚染の原因となる様々な物質を排出する一方、原子力発電所は事故時の放射性物質排出のリスクを考える必要があり、環境に与える影響でも、両者には大きな違いがある。
 第2の放射線の利用には、透過(penetration)、照射(irradiation)といった方法がある。放射線の透過を活用したレントゲンは最も代表的な例である。また、放射線の照射は人体や動植物に様々な影響をもたらし得るが、それはプラスにもマイナスにもなり得る。放射線照射を適切な管理の下で行うことにより、医療や農業、食品安全など様々な分野に役立てることができる。がん治療の一つである、放射線をがん細胞に照射する放射線医療(radiotherapy)はその代表例である。放射線医療は先進国では一般的だが、感染症が主要な保健課題であった途上国でも、平均寿命の改善に伴い、がん対策としての放射線医療に関心が高まっている。
 マラリアやデング熱を媒介する蚊や、家畜や農作物に病気をもたらすハエなどの病害虫に放射線を照射して不妊化(sterilization)を施し、個体数を減少させて伝染病対策や農業対策に活用するやり方もある。また、突然変異(mutation)の促進による農作物の品種改良や、食料品の殺菌保存のためにも、放射線照射は活用される。 
 第3は同位体、アイソトープ(isotope)の存在を利用するやり方である。物質の元素の中で質量の異なる同位体をトレーサー(tracer)として活用し、水の循環、土壌の組成、人による栄養素の摂取状況などの測定を行い、水管理、農業、防災、保健医療などの施策に役立てる方法である。