水素社会を拓くエネルギー・キャリア(7)

「水素社会」へのシナリオとエネルギー・キャリアの開発、利用目標


国際環境経済研究所主席研究員、元内閣府戦略的イノベーション創造プログラム(SIP)「エネルギーキャリア」サブ・プログラムディレクター

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 前回に記した「水素社会」へのシナリオをまとめると【図1】のようになる。これは、シナリオの絵姿を示したという程度のもので、グラフの示す数値関係はきわめてラフなものと理解していただきたい。後述するように、このシナリオを左右する大きな変動要因もある。ラフな絵姿を表す別の方法としては、それを加味したシナリオの幅や複数の絵姿を示すというやり方もあるのかもしれないが、そういったものは見にくくなるし、ラフではあっても、一つのシナリオを描くことで物事の全体像とシナリオを左右する主要な要因が改めて見えてくることもある。これらのことを考えながら、あえて一つの絵にまとめたものがこの図である。そういったことに留意したうえで、図を見てほしい。

図1

 さて、そのシナリオの要点と思われることを記しておこう。

(1)
水素エネルギーの利用は、エネファームとFCVで始まる。
(2)
このうち、水素の需要増はFCVの分野で起きるが、その需要量に見合う供給は、当分の間、国内の製油所等で化石燃料から製造された改質水素が担うことになる。そしてFCVの普及動向にも依るが、2030年頃まではこの状況が続くと見られる。仮にFCVの普及がHEVと同様のスピードで進むという、かなり楽観的な見通しに立てば、2030年には販売累計600万台を超えることになり注1)、FCV向けの燃料水素の需要増が海外からのCO2フリー水素導入のドライビング・フォースとなる可能性もある注2)
(3)
発電の分野でも、化石燃料価格やCO2排出制約の動向次第では2030年に向けて工場内で発生する副生水素を始めとする比較的安価な水素注3)の自家発電用途への利用は徐々に拡大していく。既にそうした形での副生水素の利用は進みつつある。
(4)
CO2フリー水素の海外からの導入が不可欠になるという意味で、本来の意味での「水素社会」は、発電事業で水素エネルギー利用が開始されることにより始まる。それが実現するためには、発電所における引渡し価格で水素価格が30円/Nm3以下となり、海外からのCO2フリー水素の供給チェーンが確立することが必要である。そういった利用が始まると、水素エネルギーの導入量は水素量にして200~300億Nm3の規模へと急激に増加し、国内で供給可能な水素量を上回る。それにともなって、海外からのCO2フリー水素導入量の大幅な増加が起きる。それは2030年頃のことになると考えられる。
(5)
発電事業における水素発電が行われるようになると、確立された供給チェーンを通じて安価なCO2フリー水素が利用可能になるため、FCV等の他の水素利用設備機器の水素源も海外からのCO2フリー水素に置き換えられる。これにより、FCV等の本来の環境性能も発揮されることになる。さらにCO2フリー水素は、工業炉等、その他の産業分野で消費されている化石燃料の補助燃料や代替燃料として導入が進み注4)、「水素社会」が到来する。

 このシナリオは、現段階で「水素社会」への道のりを描いたものとしては、かなり楽観的なシナリオだろう。楽観的に過ぎる、との批判を受けることも十分にあり得ると思う。ただ、水素エネルギーの運搬、貯蔵に不可欠な役割を担うエネルギー・キャリアの開発、利用技術面でのネックが、「水素社会」の実現の障害とならないようにするためには、こういったシナリオを描きつつ、バック・キャスティングをしながら現段階で何をやることが重要かということについて考え、必要な取組みを行うことは大事なことだ。

注1)
トヨタのHEVは1997年のプリウスの販売開始から16年目の2013年末で販売台数が累計600万台を超えた。なお、現時点では2030年に200万台という数字も、高すぎる目標と考えられていることは、前回述べたとおり。
注2)
600万台のFCVに必要となる水素量は60~80億Nm3。国内での改質水素量の供給可能量の見通しには前回述べたように大きな幅があるが、この程度まで需要量が増えると、海外からの水素輸入へのニーズが高まると考えられる。
注3)
副生水素は連載第6回目の【表1】に示したとおり安価であるが、副生水素は、従来から工場内で他製品の原料や補助燃料としても消費されており、化石燃料との価格関係や製品として生産、販売するコストとの関係次第で、製品として販売するよりも、工場内での消費拡大が選択される可能性がある。この背景には、苛性ソーダ製造設備で発生する副生水素を除いて、その他の工程から発生する副生水素は純度が低く、精製をしないとFCV向けには販売できないといった事情もある。
注4)
連載第5回の【表1】に示したとおり、産業分野では日本の化石燃料消費量の22%を消費しており、その割合は発電分野に次いで大きい。

 もちろんこの種のシナリオは、変動要因抜きに語ることはできない。そのうち大きなものは、CO2排出制約の度合い、LNGを始めとする化石燃料価格と水素エネルギー価格の相対的関係だろう。CO2排出制約の問題は、制約に対応するために必要となる対策コストの増減を通じて後者の問題にも関係する。また、今後の原子力発電の再稼働の状況や、国内でCCS(Carbon Capture and Storage: CO2の回収、貯留)の導入が進むかどうかによっても影響を受ける。したがって、上記のシナリオは現時点での一つのストーリーであり、要因の動向次第では、それを大幅に見直す必要があることは言うまでもない。そういった、多々ある可能性の中には、発電事業分野において水素エネルギー利用が始まらないといった事態もあり得ないわけではない。その場合、水素エネルギーの供給源は引き続き化石燃料から製造される水素が中心となるだろう。その場合、FCVの環境性能は十分に発揮されないままということになる。

 繰り返しになるが、以上の検討からも明らかなとおり「水素社会」が実現するかどうかは、水素エネルギーの発電分野への導入が進むかどうかがカギを握り、それがエネルギー・キャリアに関する量的及び質的ニーズの内容を決定づけることになる。だからと言ってFCV分野を忘れて良いという訳ではない。FCV分野における水素エネルギーの利用規模は、当面は、限定的な規模に留まると考えられているが、FCVの普及は「水素社会」の幕を開け、水素エネルギー供給チェーンの形成を促すという重要な役割を担っている。このために、水素供給源から水素STに至るまで、可能な限り安価で、技術的ハードルの少ない水素エネルギー供給チェーンを構築することが必要となるが、この供給チェーンの中においてもエネルギー・キャリアに期待されている役割は大きい。

 以上を踏まえると、エネルギー・キャリアの開発、利用に向けた目標は、次のようにまとめられるだろう。

 それは発電分野では、

2030年頃までに、発電所での水素エネルギーの引き渡し価格が30円/Nm3以下という条件を満たすコストで、年間200~300億Nm3の規模の量のCO2フリーの水素エネルギーを海外から日本に輸送する供給チェーンの構築を可能とすること
それと並行して、発電事業分野で安定的に水素エネルギーが使用できるような発電技術を確立すること

 FCV分野では、

2020年頃までに水素STにおいて、水素価格90円/Nm3、水素供給量300Nm3/hrを可能とする水素供給チェーンを構築すること注5)

というようになるのではないだろうか。

 FCV、水素発電分野ともに、今後、設備、機器の信頼性、耐久性等を確認するための実証研究や性能、効率の改良のための開発研究は必要であるものの、水素エネルギーの利用に向けて科学技術面での決定的な困難はないと考えられている。そして、これまで述べてきたことから分かるように、水素エネルギー利用の進展を左右する要因の多くは、経済的、政治的、社会的なものである。ということは、CO2フリー水素の導入にあたって不可欠となるエネルギー・キャリアの研究は、以上に例示したさまざまな環境要因の動向を見ながら、コスト低減のための研究開発、技術の実証、新たなエネルギー供給チェーンに関するパブリック・アクセプタンスに係る調査研究などをタイムリーに、かつ、的確な優先順位を見極めつつ進めていくことが必要ということになる。加えて、ここでは多くを触れることはしないが、新たなエネルギー利用システムが従来のエネルギー利用システムと比べて、ライフサイクル的に見たときに、どれほど環境負荷、特に温室効果ガス排出面での環境負荷を小さくすることができるのかについても、きちんと評価しておく必要がある注6)

 「水素社会」の構築は、新たな社会システムの構築である。それは、一企業、一機関の取り組みだけではできないことであり、多様な分野の数多くのプレーヤーの参加を必要とする。個々の参加者間の競争によって生まれる力は活用しつつも、関係者の間で必要な情報が共有され、関連する研究開発や投資活動が可能な限り合理的に進んでいくよう、上記に述べたような「水素社会」に向けたシナリオに関する情報を国全体で共有し、エネルギー・キャリアの開発、利用に向けた取り組みを進めていかなければならない。なお、繰り返しになるが、シナリオは固定的なものであってはならない。経済的、社会的、技術的状況の変化に応じて、臨機応変にシナリオは見直ししていく必要があるし、また、具体的取り組みについてもシナリオのもつ「幅」を踏まえたものとしていく必要がある。なかなかに難しい取り組みである。

 さて、今回まででエネルギー・キャリアの開発、利用を進めるうえで考慮すべき諸要因については、大凡、その全体像を記すことが出来たのではないかと思う。その中では、「水素社会の形成に関係する個々の取組み」が全体に及ぼす効果のスケール感を常に見失うことなく取組みを進めていくことが特に重要と私は考える。次回からは、エネルギー・キャリアの候補として取り上げられている物質について、これまで述べてきたことを適宜振り返りつつ、それぞれの特長をご紹介することにしよう。

注5)
90円/Nm3は、HEVと燃費的に競合できる価格として「水素・燃料電池戦略ロードマップ」(2014.6)に掲げられた目標。また、300Nm3/hrは、水素STの営業時間10時間/日、営業日数365日/年として、水素STで1日100台が給油するという標準的なケースの場合に必要な水素量。
注6)
「作り方で変わる水素の環境性 CO2の大幅削減はまだ遠い」安井至、Wedge 2015年1月号などにおいて指摘されているように、水素エネルギーの導入による環境負荷軽減効果は、その水素エネルギーがどのようなエネルギーから製造されたものかを含めて、そのライフサイクル全体を評価することが重要である。

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