私的京都議定書始末記(その44)

-カンクン以後-


国際環境経済研究所主席研究員、東京大学公共政策大学院特任教授

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Under Any Condition or Circumstances

 カンクンからの帰国後、2011年の年明けにかけて、COP16の結果に関する国内各方面への報告に追われた。最後まで筋を曲げなかった日本の交渉姿勢については、国内では概ね高い評価を受けた。外務省の山田参事官、環境省の森谷審議官と共にラジオの対談番組に出たり、国際環境経済研究所の澤所長、ソフィアバンクの藤沢久美代表と共にテレビ出演もした。

 私の交渉官としての任期は終わりに近づきつつあった。2011年1月にジェトロロンドンへの赴任内示があり、4月には日本を出発することが決まっていた。しかし最後まで任務を全うせねばならない。カンクン後の国際交渉に向けた頭のすり合わせのため、1月には米国に、2月にはドイツ、イタリア、フランス、ブラッセルを訪問し、政府関係者、産業界、シンクタンク等と意見交換を行った。皆、カンクン合意ができたことを高く評価するのと同時に、「成功したCOPの後はマイナス面への揺り戻しがあるからなあ」という声も聞かれた(コペンハーゲン後もそうだったが、実際、時計の針をカンクン以前に戻すような議論はその後のAWG交渉で頻繁に生ずることになる)。

 3月初めには定例の日本・ブラジル主催の非公式協議が開催され、主要国の交渉官が東京に集まった。議長国として汗をかいたメキシコのデ・アルバ大使、トウデラ環境次官も来日した。メキシコの労をねぎらう意味で、杉山審議官の後任の平松地球規模課題審議官主催の昼食会が開催され、私も陪席した。

トウデラ次官

 その場ではカンクンの時の苦労話等で盛り上がったのだが、私から「自分は4月にロンドンに赴任する」と挨拶したところ、茶目っ気のあるトウデラ次官は「Do you really go to London? Under any condition or circumstances?」と言って私をからかった。

 4月1日にはジェトロで辞令をもらい、私の後任には関総一郎審議官が着任した。彼は2000年代初め、地球環境対策室長として温暖化交渉に参加し、資源エネルギー庁から助っ人で交渉に参加していた私とは昵懇の間柄であった。彼が当時の澤昭裕環境政策課長と共にまとめた「地球温暖化問題の再検証」(2004年、東洋経済新報社)は、「京都議定書時代の終わり」を予見していたとも言える。後事は全て託したつもりであったが、ジェトロの辞令とは別に経産省から「地球環境問題特別調査員」という辞令ももらった。ロンドンに赴任しても、温暖化交渉を手伝うようにということである。このため、出発直前の4月のバンコクAWGにも特別調査員として参加することとなった。

 バンコクでは3月11日の東日本大震災に対する各国からのお悔やみと励ましの言葉が相次いだ。交渉の各局面では不快な思い出もあったプロセスであるが、締約国が天災等の不幸に見舞われた際は、皆心を一つにしてお見舞いの言葉を述べる。心が温まる瞬間でもあった。4月8日のAWG-KPのクロージングプレナリーでは、私から各国の励ましに感謝の意を表明すると共に、日本は必ず復興するという決意を表明した。毎度のことながら、AWG-KPでは「京都議定書第二約束期間を早く設定せよ」という途上国のコメントが相次いでおり、中国のように事実上日本を名指しで批判する国もあった。

 私からは京都議定書第二約束期間について長々と立場を表明することはせず、「第二約束期間に関する日本の立場は変わらない」とだけ述べた。ステートメントの最後に「ところで今回が自分の最後のAWG-KPであり、4月半ばにはロンドンに赴任する。ロンドンに来るときは訪ねてほしい。You would be welcome under any condition or circumstances」と言って締めくくった。会場には笑いがわき、若干の拍手もあった。「厄介払いができてよかった」という拍手もあったかもしれない。

その後の温暖化交渉

 2011年4月にロンドンに赴任してから、特別調査員としてCOP17(ダーバン)、COP18(ドーハ)、COP19(ワルシャワ)に出席した。COP17、COP18では交渉官としてAWG-LCAの緩和のドラフティング交渉にも参加した。しかし予備役軍人がピンチヒッターで再召集されたようなもので、これらについて詳しく語ることはやめておこう。

 カンクン以後の大まかな流れを示せば以下の通りである。

 2011年のダーバンでは、「全ての国に適用される(applicable to all)新たな法的枠組み(a protocol, another legal instrument or an agreed outcome with legal force)を可能な限り早く、遅くとも2015年中に作業を終えて2020年から発効させ、実行に移す」との「ダーバン合意」が成立した。またそのための交渉の場として「強化された行動のためのダーバン・プラットフォーム特別作業部会」(ADP)が設置された。他方、京都議定書第二約束期間については、AWG-KPの合意文書の別表の中で日本、カナダ、ロシアの数字の欄を黒塗りにし、更に「2012年以降、京都議定書で義務を負う意図がない」との脚注もつけた。名実共に京都議定書第二約束期間の議論から「足を洗った」ことになる。

 2012年のドーハでは2020年以降の新たな法的枠組みに関する2015年までの合意に向け、交渉の基礎的なアレンジメントを記した「ドーハ気候ゲートウェイ」が採択された。AWG-KPは第二約束期間を設定する議定書改訂案を採択してその役割を終え、終了した。EU、豪州、スイス、ノルウェー等が第二約束期間に参加することとなった。第二約束期間のカバレッジは世界の総排出量の14%程度となった。日本、ロシア、カナダに加え、ニュージーランドも京都議定書第二約束期間に参加しないこととなった。AWG-LCAも終了し、積み残しの案件は補助機関会合で引き続き検討することとなった。これにより、COP13以降続いてきた2トラック体制は終了し、ADP一本となった。

 2013年のワルシャワでは、全ての国の参加を再確認し、各国が自主的に提出する約束草案(intended nationally determined contribution)の提出方式、時期について合意された。

 ロンドンからCOPに年1回参加するだけであったが、ADPを傍聴していると、かつてAWG-LCAで聞いた言い回しや議論が相変わらず繰り返されており、「日暮れて道遠し」の思いを新たにした。器は新しくなっても参加する面々は同じなのだから驚くにはあたらないのかもしれない。

 議論の中身は大して進歩していない一方、ハード面では進捗著しく、ドーハでは経産省代表団のほぼ全員がiPad を持ち、必要なドキュメントは全てiPadに入れて身軽に交渉しているのに驚いた。交渉状況も携帯を通じてリアルタイムで共有されている。カバン一杯にドキュメントを詰め込んで交渉に当たっていた自分と引き比べ、今昔の感がある。私の後任の関総一郎審議官、その後任の赤石浩一審議官、更にその後任の三田紀之審議官の下で、経産省チームは素晴らしい働きを見せていた。「ロートルの出る幕ではないな」としみじみ思った。

 ということで、44回にわたって書いてきた私的京都議定書始末記に「始末」をつける時が来たようだ。

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