私的京都議定書始末記(その34)

-カンクンへの道のり-


国際環境経済研究所主席研究員、東京大学公共政策大学院特任教授

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Meeting after Meeting

 1-2月の主要国歴訪を終え、3月から交渉が本格化してきた。例年のように3月初めには日本とブラジルの共同議長による日伯対話が皮切りとなり、3月末にはメキシコ主催非公式会合が、4月初めにはコペンハーゲン後、最初の特別作業部会(AWG)が、4月下旬には米国主催の主要経済国会合(MEF)が、5月初にはドイツ・南ア主催のペータースブルク閣僚会合がそれこそ矢継ぎ早に開催された。カンクンまでに開催された公式・非公式会合を列挙すると、AWGが4回(4月、6月、8月、10月)、ドイツ・メキシコ主催のペータースブルク閣僚対話(5月)、MEFが4回(4月、7月、9月、11月)、メキシコ主催非公式会合が4回(3月、5月、7月、10月)等々、膨大な数に上る。まさに会議また会議で、その頃の手帳を見ると月に最低1~2度は出張している。コペンハーゲンで受けた傷から回復するためには、少しでも多く顔を合わせることが必要ということなのかもしれないが、「交渉官という人種は本当に会議が好きだなあ」と妙なところで感心したものだ。

コペンハーゲン合意の位置づけ

 2010年前半の議論の一つの焦点はコペンハーゲン合意の位置づけであった。2月初めの時点で、コペンハーゲン合意に賛同した国々は93カ国に達し、うち64カ国が緩和目標、緩和行動を提出していた。これら諸国のエネルギー起源CO2排出量は世界の82%をカバーする。このため、先進国はコペンハーゲン合意を次期枠組みのベースと位置づけ、まずはこれを国連プロセスに戻し、正式なCOP決定にすべきとの姿勢を明確にした。

 これに対し、中国、インドは、「コペンハーゲン合意は有益な材料ではあるが、正式な決定文書ではない。あくまでバリ行動計画に基づき、AWG-KP、AWG-LCAの2トラックでの交渉を妥結させるべき」との姿勢を強く打ち出した。中国もインドもコペンハーゲン合意に携わった国々の一つである。思い起こせば、COP15最終日のプレナリーの場で、ALBA諸国がコペンハーゲン合意を非難する一方、先進国のみならず多くの途上国がコペンハーゲン合意採択を主張する中で、中国、インドは明確な態度を示していなかった。先進国、途上国がいずれも緩和目標、行動を登録するというコペンハーゲン合意の構造に、心中、「譲り過ぎた」と思ったのかもしれない。その後のコメントを聞いていると、あたかもコペンハーゲン合意が採択されなかったことを奇貨として、その位置づけを相対化、更にはダウングレードしているような感もあり、米国のパーシング副特使は「時計の針を逆戻りさせている」と憤慨していた。

 とはいえ中国、インドも含め、コペンハーゲン合意に基づく緩和目標、行動の登録は行っており、コペンハーゲン合意の位置づけの重さについては、ALBA諸国を除いて幅広く認知されていたといってもいいだろう。問題はコペンハーゲン合意に基づく1つの枠組みを志向するのか、コペンハーゲン合意はあくまでAWG-LCAの成果イメージであり、AWG-KPでの京都第二約束期間設定を併せて志向するのかということになる。

 コペンハーゲンでオバマ大統領との膝詰め談判に引っ張り出された中国、インド、南ア、ブラジルは、2010年に入り、BASICというグループを形成していた。BASICとは、ブラジル、南ア、インド、中国の国名の頭文字をつなげたものだが、英語ではBSAICになってしまい、語呂が悪いのでフランス語 Bresil, Afrique de Sud, Inde, Chineをつなげたようだ。G77+中国の中には、LDC、ラ米、アフリカ、島嶼国, ALBA等のグループが存在していたが、BASICは経済力の強い新興国の集まりとして、独自の閣僚会合を行う等、存在感を強めていくことになる。

メキシコ主催非公式会合

 2010年のプロセスでは、AWG、MEF等の国連内外の協議に加え、議長国メキシコ主催の非公式会合が開催された。デ・アルバ特使が語っていたアイデアが実行に移されたのである。3月末の第1回会合はメキシコシティで開催され、杉山地球規模課題審議官、森谷環境省審議官らと共に、メキシコ外務省の大会議室に入ると、日伯対話、MEF等で見慣れた面々が顔をそろえていた。特徴的なのは主要排出国のみならず、マーガレット・ムカハナナAWG-LCA議長(ジンバブエ)、ジョン・アッシュAWG-KP議長(アンティグア・バーブーダ)、G77議長国のイエメン、島嶼国、ラ米諸国、アフリカグループ、LDCグループ、更にはコペンハーゲンで大暴れしたALBAからも出席する等、「ミニ国連」的な構成になっていたことだ。デ・アルバ特使自身が強調していた信頼回復のためのinclusiveness とtransparencyを重視した顔ぶれといえよう。第2回会合は5月にメキシコシティ郊外の別荘地で行われたが、この時はカルデロン大統領自身がヘリコプターで飛んできた。会合出席者は大きなテントに集められ、勇壮なメキシコ国歌とともにカルデロン大統領が登場し、交渉進捗を鼓舞するスピーチを行った。メキシコがこのプロセスに非常に力を入れていることがうかがわれた。

 議論のトピック自体は緩和、資金、技術、適応、次期枠組みの法的性格等、MEFと変わらない。少人数ということもあり、比較的和やかで、率直な雰囲気ではあるが、各国の本質的な対立はそのまま、ということもMEFと同様である。デ・アルバ特使は自ら議長を務め、根気強く各国の発言を聞き、時に議長としての考えも披露していた。そうしながら頭の中で、各国の見解が収斂しそうな部分、決して折り合えない部分、各国のレッドライン等を整理していたのだろう。また、メキシコは非公式協議が開催されるたびに、AWGの場で必ずその概要を報告していた。舞台裏で少人数で何かこそこそやっているという批判を回避するためである。

 このようにメキシコはコペンハーゲンでの議長国デンマークの轍を踏まないよう、細心の注意を払って物事を進めていた。これはALBA諸国も含め、各国から高く評価され、プロセスに対する不信感はコペンハーゲン当時に比してずいぶん和らいできたと思う。ただ、透明性をもって、皆が参加する形で議論することは手続き面では非の打ち所がない反面、関係者が増えれば増えるほど合意形成は難しくなる。両者をどうバランスさせ、着地点を見出すつもりなのかと先行きに不安も感じていた。

3年目に突入

 例年、経産省では6月~7月に大きな人事異動がある。私は2008年7月に着任しており、在任丸2年になるため、通常であれば異動の年であった。しかし2010年半ばになっても異動する気配はなかった。結局、定期異動では、鈴木正徳局長の後任として菅原郁郎局長が着任したが、私は塩漬けとなり3年目に突入した。もともとコペンハーゲンでの交渉妥結を念頭に丸2年はいるのだろうと思っていたが、コペンハーゲンが失敗し、その前提条件が変わったということらしい。また2011年の交渉は前年以上に日本にとって厳しいものになることが予想された。日本が決して受け入れるつもりのない京都議定書第二約束期間の問題がクローズアップされることが確実だったからだ。その大きな要因になったのがEUの「変節」であった。

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