私的京都議定書始末記(その18)

-アクラ気候変動交渉に再登板-


国際環境経済研究所主席研究員、東京大学公共政策大学院特任教授

印刷用ページ

気候変動交渉チーム

 2008年7月、洞爺湖サミット直後の人事異動で産業技術環境局審議官に就任した。このポストは地球温暖化国際交渉のみならず、国内の温暖化対策、リサイクル問題、環境アセスメント等を含む広義の環境問題もカバーする。事実、私の前任のポートフォリオの中で国際交渉の占める位置づけは2-3割だったと思う。しかし、私が就任した際のミッションは「主に国際交渉に専念せよ」ということであった。2009年末に次期枠組み合意を目指すという中で、これから1年半は国際交渉が大きな盛り上がりを見せ、会議の頻度も従来とは比較にならぬほど多くなる(事実、私が離任する2011年4月までの2年10ヶ月で出張回数は48回に及んだ)。国際交渉は決まったプレーヤーが継続的にフォローすることが鉄則だ。したがって変則的ではあるが、私は事実上、「地球環境国際交渉担当審議官」となり、その他のイシューについては同期の西本審議官が産業技術とともにカバーしてくれることとなった。

 当時の経産省の交渉チームは本部和彦資源エネルギー庁審議官、竹谷厚産業技術環境局地球環境対策室長、岡本晋同室補佐、鬼束貴子係長、谷査恵子係長、三橋敏宏京都メカニズム推進室長他であった。本部審議官は、私が通産省に入った際の最初の直属上司であり、経産省交渉団の中で数少ない喫煙者仲間であた。岡本補佐は、私が貿易局総務課課長補佐の際に一年生で入ってきたが、外務省、経産省で連続して気候変動交渉に携わり、日本交渉団の中でも最も経験豊かな交渉官の一人であった。私が資源エネルギー庁で各地に出張する際に同行し、気候変動部分の議論を担当してくれたのも彼であった。その意味で、彼は私にとっての気候変動問題の「お師匠さん」であった。外務省は古屋昭彦地球環境大使、杉山晋輔地球規模課題審議官、大江博審議官、小林賢一気候変動室長他、環境省は竹本和彦地球環境審議官、森谷賢地球環境局審議官、島田久仁彦交渉官、瀧口博明国際地球温暖化対策室長、川又孝太郎同室補佐その他の陣容である。顔見知りが多かったのも幸いであった。古屋大使は、OECD代表部勤務の際、公使としてお仕えし、小林室長とは、G8サミットの際、頻繁に連絡をとりあっていた。また竹本地球環境審議官とは、COP6、COP6再開会合、COP7交渉の際、一緒であった。その後、メンバーの入れ替えがあったものの、三省の交渉チームは日本交渉団のコアとして、苦楽を共にすることになる。国際交渉においては、政府代表団内の団結が何よりも重要だ。特に、私の在任期間を通して、杉山地球規模課題審議官、森谷審議官とトリオを組んで行動することが非常に多かった。京都議定書交渉の頃、三省の審議官クラスを称して「気候三銃士」といったらしいが、我々も2000年代の気候三銃士として、その後、何度となく出張を共にすることになる。

久しぶりのブラックアフリカ

 着任して最初にしたことの一つが予防接種であった。8月21-27日にはガーナの首都アクラで非公式作業部会(AWG)が開催されることになっており、今次交渉における交渉官としての初陣となる。経産省の交渉チームと共に、東京検疫所に行って、黄熱病、腸チフス、三種混合(ポリオ、ジフテリア、破傷風)、A型肝炎の4本の予防接種を左右の腕に2本ずつ受けた。黄熱病の予防接種を受けながら、ガーナで客死した野口英世のことを思い浮かべていた。私にとっては1992年にケニアから帰任して以来のブラックアフリカである。しかし、8月20日夜、ガーナの空港に降り立ち、出口付近の雑然とした雰囲気を見ると、20年前のケニア駐在の記憶が瞬時に蘇ってきた。ガーナは民主的選挙によって政権交代を果たしてきたアフリカの模範国の一つであるとはいえ、夜、一人で出歩くことは危険である。またマラリア蚊に刺されてはかなわない。このため、それから1週間、ホテルとアクラ国際会議場をマイクロバスで往復する毎日となった。

アクラ国際会議場

セクター別アプローチについてプレゼン

 初陣となった私の担当はCOP13で設立が決まった長期協力問題非公式作業部会(AWG-LCA)である。ここでセクター別アプローチのワークショップが開催されることとなり、着任早々ではあるが、日本政府を代表してセクター別アプローチの考え方、目的をプレゼンすることとなった。エネルギーの世界では、省エネに絡めてセクター別アプローチの「布教」を行い、それなりの成果をあげてきたが、こちらは気候変動の世界であり、参加している人々の顔ぶれも大きく異なる。しかも会場が劇場スタイルでステージ上の演題にのぼり、聴衆に向かってプレゼンする形となる。「炎上」するのではないかといくぶん緊張して壇上に上ったが、マシャドAWG-LCA議長(ブラジル)が述べたように、「2008年は将来枠組みに関するブレーンストーミングの段階であり、交渉全開モード (full negotiation mode) に入るのは2009年に入ってから」というのが皆の認識であったため、思いのほか、穏やかな雰囲気であった。

AWG/LCAのマシャド議長(中央)

 とはいえ、セクター別アプローチについてのコメントは多かった。G8+3エネルギー大臣会合のときにカウンターパートとなったインドのマトウールエネルギー効率局長も同じワークショップに参加しており、「セクター別アプローチは途上国協力の手段として有益だが、同一セクターであっても各国の状況は異なっており、セクター別ベンチマークを統一したり、画一的なセクター別目標を強いるべきではない」と主張した。EUは「先進国の目標設定に当たって、セクター別の削減ポテンシャルを積み上げることのでは、野心的な目標設定につながらない」とコメントした。私からは「同一セクターであっても各国の状況が異なることは当然。しかし国際比較の観点からベンチマークは可能な限り共通のものを使うべき。実行可能性の評価を伴わない目標設定は無責任」とコメントした。久しぶりの出陣ではあったが、プレゼン+質疑応答を通じて、段々、昔の勘所を思い出してきた。

AWG/LCAで発言する筆者
インドのマトウールエネルギー効率局長

 交渉の合間には欧州委員会との非公式意見交換も行った。EUは先進国の目標設定の手法としてのセクター別アプローチには後ろ向きだったが、セクター別アプローチを途上国に適用し、セクター別クレジットのような新たな市場メカニズムを作ることには関心を示していた。ここで気候行動局のアルトウール・ルンゲメツカー氏と知己になった。彼はEU交渉団の顔的な存在であり、会議での発言も明確かつウィットに富むものであった。我々と意見の食い違いが多々あるのは当然なのだが、手強く、学ぶべき点も多いカウンターパートである。彼とは後にAWG-KPやバイ会談等で何度となく顔を合わせることになる。

先進国・途上国の区分は永久不変?

 LCAでは、将来枠組みに関するブレーンストーミング的な議論が中心であったが、先進国、途上国の区分の見直しについても日本代表団から問題提起がなされた。非附属書Ⅰ国(途上国)の中には、生半可な先進国よりも一人当たりGDPがはるかに高いシンガポールのような国も存在する。1992年の気候変動枠組み条約当時の区分を16年たってもそのまま維持するというのは不合理というものだ。この部分をコメントした環境省の島田交渉官とは、主要経済国会合(MEM)、COP13で親しくなったが、COP3の時には米国交渉団の手伝いをし、国連事務局で気候変動問題やPKOを担当し、「お雇い外国人」としてセネガルの首席交渉官を務める等、日本の交渉団の中で異色の経歴を持っていた。英語、フランス語を母国語のように話す彼が、「我々は(1992年以来、何も見直さない)氷河期にいるのではない(We are not in the ice-age)」と言って、国分類の見直しを求める姿は非常に迫力があった。これに対しては名指しされたシンガポールが激しく反論し、日本と再三の応酬となった。一度できあがった区分を変更することの難しさを改めて思い知らされた瞬間でもあった。この問題は、その後も何度となく浮上してくるが、結局、見直しに反対する国がいる限り、全員一致を旨とする温暖化交渉では、現在の制度を変更することはできない。

LCAの最中、内部で相談
欧州委員会との意見交換

 交渉の中間地点ということで、日曜日は休みになり、事務局のアレンジで、かつて西アフリカからの奴隷積出港であったサブサハラ地域最古の欧風建築であり、後に西アフリカからの奴隷積出拠点となったエルミナ城を見学した。アルミナ城から青々とした大西洋を眺めながら、それまでの数日間の交渉を振り返り、これから延々と続く交渉、特に「交渉全開モード」となる2009年に思いをはせ、兎に角、長丁場に向けて気力、体力をつけなければと自分に言い聞かせていた。

エルミナ城から見た大西洋

記事全文(PDF)