私的京都議定書始末記(その4)

-COP6の決裂-


国際環境経済研究所主席研究員、東京大学公共政策大学院特任教授

印刷用ページ

 ボンで初陣を果たしてから5ヶ月後の2000年11月11日、私はハーグのベルエア―ホテルの前に立っていた。これから2週間の長丁場となるCOP6の会場である。前半1週間が補助機関会合における事務方交渉、後半が閣僚レベルの交渉である。その1ヶ月前、リヨンで臨時の補助機関会合が開かれたが、ハーグに場所を移しても、私の担当するメカニズムを含め、各イシューをめぐる対立の溝は埋まる気配を見せなかった。この手の交渉の場合、各国のコメントがブラケットとして積み重なった交渉テキストは、最早交渉のベースには成り得ない。どこかのタイミングで議長テキストが出なければ、交渉は前に進まない。しかし議長テキストに自分のポジションが反映されるためには、事務レベル会合段階で妥協するわけにはいかない。その意味では事務レベル会合は閣僚レベル折衝の前の儀式のようなものであり、ひたすら消耗を強いられるプロセスであった。現在の交渉は終了時間が午後6時と一応決まっており、交渉終盤になるまでは基本的にそれが守られている。しかし当時はこうした時間制限がなく、しばしば真夜中過ぎまで交渉が行われた。1週間目の終わりころには「よれよれ」の状況であった。

COP6の会場となったベルエアーホテル

 ところで私は京都メカニズムの他にもう一つ、「政策・措置」も担当していた。京都議定書では附属書Ⅰ国は2005年までに「目に見える成果(demonstrable progress)」を提出することが求められていた。その報告の中で、どの程度、特定の政策・措置、指標を使用するかということが交渉内容である。ここでも京都メカニズムの交渉と同様、アンブレラグループは可能な限り報告内容に自由度を確保しようとし、EUは政策・措置、指標を特定すべきだと主張した。当時からEUはトップダウンが大好きだった。この交渉グループの議長はスイスのホセ・ロメロ氏であった。にこやかな人柄で、交渉は全然前に進んでいないのに「We are close to the agreement」と繰り返し、国連交渉の議長はこれくらいの神経でないと務まらないのだなあと変に感心したものだ。

 COP6の議長はヤン・プロンク蘭環境大臣であり、その事務方の懐刀となっていたのが、後年、UNFCCC事務局長となるイボ・デボア氏であった。日本の政府代表は川口順子環境大臣である。川口大臣は世銀、在米大使館勤務等、国際経験豊富な通産省の大先輩であり、退官後、サントリーにおられたところ、小泉首相にから環境大臣に抜擢された方である。川口大臣を初めとする日本代表団ハイレベルが現地に到着したのは1週間目の週末頃であった。経産省のヘッドは荒井寿光経産審議官であり、日下一正産業技術環境局長、林洋和資源エネルギー庁次長らも現地入りした。川口大臣到着後、まず行ったのは、それまで1週間の交渉状況のブリーフである。事務方交渉に参加していた我々交渉官達も陪席し、必要に応じて大臣に直接ご説明する。川口大臣は、京都議定書を批准可能なものにするための具体的ルールを決めるという目的を追求しつつも、日本が京都議定書を批准するためには、6%目標受け入れの前提となっていた3.7%の森林吸収源の確保、京都メカニズムの弾力的なルール、罰則を伴わない柔軟な遵守制度の確保が不可欠であるとの方針で精力的に交渉に臨まれた。

 閣僚達が到着し、COP6交渉はいよいよテンションを上げてきた。プロンク議長の求めにより、イシューごとの閣僚レベル会合も行われ、川口大臣は京都メカニズム交渉の議長を担当された。マルチの交渉会合は、英語でやり合うだけでも大変なのだが、川口大臣は夜遅くであるにもかかわらず、流暢な英語で議長を見事に務めておられた。

 しかし、2週目半ばになっても各交渉グループの溝は埋まらず、交渉の先行きには暗雲が漂ってきた。環境NGOは「京都議定書を殺すな」というデモンストレーションを会場各所で行っていた。京都議定書の規定集を顔に乗せた「死者」を担架で運んでいる者がいるかと思うと、中には米国の交渉態度が後ろ向きであるとの理由で、米国首席代表のフランク・ロイ国務次官がプレス会見を行っている最中にパイを顔にぶつけるという挙に出る不逞の輩もいた。「正義の味方と自任する人ほど始末に負えないものはない」との思いをこの時に強く持った。

 11月22日(木)、プロンク議長が、それまでの交渉を踏まえ、政治的な決着が必要な項目についての議長調停案を提示した。いわゆる「プロンク・ペーパー」である。プロンク・ペーパーが提示されると、各分野の交渉官は大急ぎでその内容を検討した。プロンク・ペーパーには京都メカニズム使用に定量的な数量上限を加えないとする点は評価できる一方、森林吸収源については、森林管理分の85%を割り引く(この計算方法だと日本の数字は0.56%になってしまう)、原子力からのCDMクレジット取得を差し控える(refrain from)等、日本として受け入れがたい項目も含まれていた。それからアンブレラグループ内、アンブレラ・EU間、議長・各交渉グループ間等、種々の水面下の接触・調整が行われたと記憶している。

 クライマックスは11月23日(金)から24日(土)明け方にかけての閣僚折衝であり、川口大臣もこれに入っていた。これは閣僚本人のみが出席を許されるというものであり、我々交渉官は、各論点について川口大臣からの御下問がある場合に備え、閣僚折衝が行われた小会議室の外で待機していた。ところが各国の事務方が「大臣にメモを渡す」との理由で会議室に入ったきり、出てこないケースが多いことに気付いた。「これは入ったもの勝ちだ」と思い、京都メカニズム部分の交渉に入る頃を見計らって、会議室にもぐりこんだ。楕円形のテーブルに20-30人の大臣が座っており、周囲には相当数の事務方が控えていた。「大臣限り」というのは有名無実化していることは明らかだった。このため、川口大臣の後ろに陣取って交渉を見守ることとした。原子力CDMの議論が始まると、インド、イラン、日本、カナダ等が特定技術を排除するのは不適切であると主張した。これに対して緑の党出身のボワネ仏環境大臣は「自分は過去20年間原発と戦ってきた。原子力に対して前向きな評価をすることは認められない」と熱弁をふるった。フランスの大臣が、自国の電力供給の80%を賄う原子力を真っ向から否定する姿を見て、唖然となった。その前年にOECD代表部で私が担当したIEA閣僚理事会では、フランスは原子力の重要性を強調していたからだ。フランス政府部内の連携はどうなっているのだろうと思った。プロンク議長は「原子力について見解が分かれているのは承知している。だからこそ原子力技術をCDMから除外するという表現ではなく、先進国が自主的に原子力からCDMクレジットを取得することを差し控えるという表現にしたのだ。」と迫ってきた。悔しいことだが、この点について日本は妥協せざるを得なかった。既にアンブレラグループの主張を踏まえ、京都メカニズム利用に人為的な数量上限は組み込まれない方向は固まりつつあった。原子力からのCDM取得を差し控えるとしても、各国の国内政策そのものを縛るものではない。更に、この金曜深夜の段階では、「吸収量を含むパッケージ合意ができるかもしれない」との気配が見え始めていた。

 プロンク・ペーパーが出た直後から、英国のプレスコット副首相が米欧対立による交渉決裂を防ぐために調整に乗り出していた。3.7%の吸収源獲得は日本にとって死活問題であったが、欧州が本当に気にしていたのは米国やロシアのような巨大な国土、森林を有する国々に膨大な吸収量を認めることに歯止めをかけることであった。プレスコット副首相の努力により、米国も吸収量の数字に一定のキャップをかけることに歩み寄ったようだった。その関連で吸収量が相対的に小さい日本については要求水準に相当近いレベルの吸収量が認められそうな状況になっていた。したがってメカニズム戦線における原子力CDMというワン・イシューを理由にパッケージ合意をつぶすことはできなかったのだ。

 土曜明け方までの閣僚折衝で合意の見通しが出来たかに見えた。ところが土曜午前になって、「交渉が決裂したようだ」という話が飛び交った。EU内でパッケージ案に関する合意が得られなかったということだ。後日、米欧の橋渡しに奔走したプレスコット英副首相が「ボワネ仏環境大臣は、疲労困憊して全体の仕組みに対する判断ができず、交渉を決裂させた」と批判して話題になったが、ここらへんが真相だったようだ。プロンク議長は土曜午後、最後の調整努力を閣僚達に求めたが、結局、合意は得られず、土曜午後6時半、COP6は合意に達しないまま中断し、2011年に再開会合を開催することが合意された。

 私にとって初めてのCOP会合は、このように混乱の中で終わった。会合終了直後から、失敗の責任は誰にあるか、という非難ゲーム(blaming game)が始まっていた。「日本が交渉の足を引っ張った」という現在も続く自虐的な報道もあったが、現実は米欧対立、更には欧州の中での調整失敗が原因である。色々なことを学んだ2週間であった。交渉には体力が必要なこと、タコつぼにはまって交渉していると全体像が見えなくなること、マルチの国際会議は「生き物」であり、合意が出来かけたかと思うと、いとも簡単に崩れたりもすること、失敗すれば、常に誰かを悪役に仕立てようとすること等々である。しかし、2週間に及ぶ昼夜を問わない交渉は、身も心も疲労困憊させるものであり、「もうこりごりだ」と思った。その時点では、COP会合に合計9回も出席する羽目になるとは夢にも思わなかった。

記事全文(PDF)