電力供給を支える現場力③

-東北電力 原町火力発電所復旧の奇跡-


国際環境経済研究所理事・主席研究員

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<原町火力の2011年3月11日>

 津波は少なくとも第一波から第三波まで発電所を囲むように襲い、中でも第二波が想定津波高18mという想像を絶する大きさだったと考えられている。東北電力は1960年チリ沖地震による津波(3m)の経験から、原町火力発電所の地盤高を5mとし、かつ、非常用ガスタービン発電機などの施設をタービン本館の3階に設置するなどの対策をとっていたが、18mの津波の前にはいかんともしがたい状況だっただろう。以下、時系列で原町火力発電所の2011.3.11を追ってみる。

14:46
原町火力発電所の立地する福島県南相馬市を、東北地方太平洋沖を震源とするM9.0、最大震度7(南相馬市で震度6弱)の地震が襲う。1号機(1000MW)は稼働中、2号機(1000MW)はボイラー点検のために停止していたという。1号機では、多数の警報は発せられたが軸振動値などがいずれも自動停止値未満のため停止には至らず、運転継続。
14:49
大津波警報発令。
14:52
引潮により潮位低下が確認されたことから運転出力を1000MWから800MWに降下開始。さらに600MWまで降下。
15:17
中央制御室真下の事務本館4階電源室より出火を確認。消防に通報した後、初期消火活動開始。
15:41
発電所敷地(5m盤)浸水。運転継続不可能と判断し、1号機手動停止。
15:43
第二波と考えられている大津波の到達。

 実に地震発生後55分間も、1号機は発電を継続したのだ。この地震では他の発電所も甚大な被害を受けているだろうから、できるところまで電力供給確保のため運転を続けようという判断だったそうだ。中央制御室天井のルーバーが落下し、下記のように階下の部屋が出火する中、ヘルメットをかぶって運転を継続した社員の方達の「発電魂」には脱帽するとともに、震度6弱でも自動停止基準値未満であったというこの発電所の耐震強度にも驚嘆せざるを得ない。
 手動停止前の15:17には、中央制御室下の電源室から出火があった。社員155名が「海水だけは豊富にある」と、手近にあったゴミ箱など水を汲める形状のものを総動員して、バケツリレーをし、消火にあたったという。度重なる余震、そして津波警報を知らせるサイレンが鳴り響き、その度に一旦退去しながら消火にあたるなか、バケツリレーの先頭を務めたのが、当時の所長だったそうだ。一番危険な場所を譲らず水を汲み続ける所長と、それに続く社員の列。その後復旧工事を通じて常に「チーム原町」と呼ばれることになる団結力を既にここに見ることができる。社員達の消火活動が中央制御室等への延焼を防ぐカギとなった。もし中央制御室に火の手が及んでいたら、これだけ早い復旧は不可能だっただろう。
 延焼は食い止めたものの、甚大な被害を受けた職場を離れることができず、当日案内してくださった工藤運営企画課長も「震災後初めて家に帰ったのは3日後の夜だった」という。言うまでもなく、彼自身も被災者である。