活断層評価で議論呼ぶ原子力規制委と電力会社への注文


国際環境経済研究所前所長

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原子力に対する信頼回復は、政権交代によってもたらされるものではない。
リスクを許容可能な水準に抑えて、原子力発電を最大限活用していくためには、
規制を守れば十分という意識から脱却し、自律的に安全を追求する事業者と、
ゼロリスクの罠に嵌ることなく、信頼性、効率性、実効性すべてを
満たすような規制活動を目指す規制当局の存在が欠かせない。

 安倍首相は1月25日、経済産業大臣に対し、前政権の革新的エネルギー・環境戦略をゼロベースで見直すよう指示した。原子力は不可欠だと考えてきた有識者や電力会社の間では、再稼働や原発新設に向けての期待感が高まっている。中には、これで反原発・脱原発派の主張や運動は誤りであることが明らかになったのだと断ずる人さえいる。
 筆者も、これまでの民主党政権でのエネルギー政策に異を唱えてきたうちの一人だ。しかし、こうした浮ついた反応や行きすぎた解釈には、苦々しい思いを禁じえない。福島第一原発の事故がもたらした衝撃は、容易に払拭できるものではない。
 自給率が低く、燃料をほとんど外国に依存しているという日本のエネルギー構造に変化はない。エネルギー安全保障のために電源多様化を目指さなければならない日本のエネルギー政策にとって、原子力は当分の間維持していかなければならない重要な要素である。感情的な世論が鎮まり、ようやく冷静かつ合理的な議論ができる状況が生まれた今こそ、福島第一原発事故の反省に立ち、今後長期間に亘って持続可能な形で原子力を根付かせていくための必要条件を明らかにし、それを満たすような産学官の努力を傾注すべき時だ。
 原子力事業の継続にとって解決が必要な課題は山積している。高レベル放射性廃棄物の最終処分や、原子力損害賠償のあり方などあるが、最大の問題は安全性の確保だ。その鍵を握るのが原子力規制委員会(以下、規制委)のパフォーマンスである。

一部の専門家では信頼性は保てない

 原子力への信頼回復と今後の持続可能な電源利用を実現するために必要だと筆者が考えるポイントは3つだ。規制委の規制活動に関して、①信頼性、②効率性、③実効性がなければならない。
 ここでいう「信頼性」は広い概念である。規制のサブスタンスに加え、規制立案・実施のプロセスについての信頼性もある。規制のサブスタンスとは、主として現在検討されている新安全基準の内容のことを指すが、例えば話題の活断層の評価なども含む。こうした規制に関する規制委の判断や評価については、規制委に属する専門家のみならず、委員会外部(海外を含む)の専門家の間でも、その妥当性について大きな疑義が生じることがない程度まで、文書で明瞭な根拠が示されることが必要だ。
 規制のサブスタンスについての信頼度は、プロセスによっても左右される。活断層評価について言えば、過去の審査に携わった専門家は意図的に外し、4人(島崎邦彦委員長代理を除く)という少数かつ限られた分野の専門家だけで検討が行われている。むしろ、過去の審査メンバーを維持したまま、意見が異なる専門家を新たに招き、両者間で議論を闘わせることで信頼度が高まるとは考えなかったのだろうか。
 さらに、途中段階で各専門家が口頭で個人的な意見を開陳することは大きな混乱を招く。敦賀原発敷地内の破砕帯に関する評価が、その典型例だ。根拠を記した報告書案は1月28日に出されたが、それより前に、活断層だと最終的に認定されたかのように受け止められる会見が繰り返し行われた。
 それに対し、日本原子力発電は、規制委に対して公開質問状を提示した(昨年12月11日)。事業者にこうした手段に訴えなければならないほど危機感を持たせた原因が評価作業の進め方にあるとすれば、規制委側は反省すべきである。規制委は自らの組織理念として「国内外の多様な意見に耳を傾け、孤立と独善を戒める」(ホームページ)と掲げているからである。
 また、「信頼性」には、法令に基づき文書をもって規制活動を行うことも含まれる。民主党政権では、浜岡原発を総理の「要請」という圧力で停止させる、定期検査後の再稼働に法令根拠のないストレステストを課すなど、法治主義とはほど遠い原子力行政を進めてきた。
 今後はこうした行政手法と決別し、今後規制委と政府、そして事業者がどのような権限と責任をもつのかを明確化する必要がある。さらに規制活動のプロセスも、規制委が行うそれぞれの行為の法的根拠を明確にし、その判断や指示を全てきちんと文書化していくことが重要だ。
 その試金石が、今年7月に施行される予定の新安全基準によるバックフィット(最新の技術的知見を技術基準に取り入れて、既存の原子力発電所にも当該最新基準への適合を義務づけること)である。
 新しい「炉規制法」の第43条の3の23にその根拠条文があるが、ここには「(新安全基準に)適合しないと認めるとき」に、当該施設の使用停止や改造・修理などを命ずることができるとしか書かれていない。安全基準に適合するかしないかをどう審査するのか。適合するまでの猶予期間は認められるのかどうか。申請書の内容は膨大になるが、審査はどの程度の期間をかけて、どのようなプロセスで行われるのか。こうしたことは、現時点で全く明らかではない。
 本来、こうしたプロセスの具体化は、昨年規制委が立ち上がった後の第1の仕事たるべきだ。活断層の評価と比較すれば、法の執行手続きの整備に時間とマンパワーを割いてこなかった姿勢は大きな問題だ。規制委はアカデミックな学会発表の場ではなく、経済的資産として存在している原子力発電所の活用の可否を検討する場だからである。

効率性という視点

 この最後の点にも関連するが、第1のポイントは規制の「効率性」である。福島第一原発の事故によって、いわゆる安全神話は崩れた。今後の原子力技術の利用に関する規制の課題は、リスクをゼロにすることを目的とするのではなく、リスク低減のために求める措置の強度やコストとリスクの低減度合いとの兼ね合いをどうバランスさせていくかにある。
 米国の原子力規制委員会(NRC)は規制活動の5原則の1つに「効率性」を挙げる(他に、独立性、開放性、明瞭性、信頼性)。「納税者、電気料金を支払う消費者、認可取得事業者は皆、規制活動の管理運営は可能な限り最良の状態であることを求める権利があ」り、「規制活動は、それによって達成されるリスク低減の度合いに見合ったものであるべき」であり、「有効な選択肢が複数ある場合には、リソースの消費が最小になる選択肢を採るべき」だとする。
 そうした原則に基づき、米国のバックフィット制度においては、NRCは「公衆の適切な防護を確保するにための措置」に該当する場合においてのみ、コストを考慮せずに迅速なバックフィットを要求するが、そうでない場合には、NRCが改造・追加投資によるコストと安全性向上によるメリットを比較したうえで、実施の要否を判断することになっている。
 日本においては、「ゼロリスクはありえない」ということを学んだにもかかわらず、むしろそれがゆえに、再稼働にむけてゼロリスクを要求する世論が強まるという逆説的な状況が続いてきた。規制委も、「グレーであれば安全側に立つ」といった表現で、そうした空気に寄り添うスタンスを取ってきたという印象が強い。
 ともすれば規制委自身がゼロリスクの呪縛に囚われた規制活動を行っていないか、自ら顧みることが必要ではないだろうか。田中俊一委員長自身もあるインタビューでこう言っている。「絶対安全とは言わない。言えばまた安全神話になる」(東洋経済オンライン)と。その立場を守ってもらいたい。

規制当局と事業者のあるべき関係

 最後に「実効性」の問題だ。
 これまでの規制行政については、福島第一原発の事故以降、さまざまな問題の指摘がなされてきた。特に、安全審査や検査が、構造や強度などの安全基準への形式的な適合性を確認することに重点が置かれすぎ、全体の安全性を実効的に確保する活動に努力が振り向けられるようなインセンティブ設計がなされていなかったという点が最大の問題である。
 10年ほど前に発覚した東京電力の自主点検記録に関する不正問題をきっかけに、品質保証計画に基づく保安活動が義務づけられることになった。これは、それまで安全性向上を事業者自らの責任で自律的に達成していくという意識がなく、国が策定する規制基準を遵守し、規制当局にお墨付きを得ればそれで十分という認識しかなかった原子力事業者の意識改革をもたらすものとなりえた制度改革だったのである。しかし、こうした検査型から監査型への移行は、手法の未成熟さや制度の理解不足などから、期待どおりの成果をもたらすことなく行き詰まっている。
 米NRCは、スリーマイル原発事故のあと適合検査を強化することで原子力安全の確保を進めようとした時期があったが、不適合が多発し稼働率が大きく低下、結局失敗したとの認識が広がった。そこで「We trust licensees, but verify them」(認可事業者は信頼する。しかしそれを検証する)を原則とし、現在に至っている。検査の重点は規制の実施結果を見ることに置かれ、検査官は問題のある部分に集中することができるようになった。逆に原子力事業者の方も、規制当局に信頼されていることが前提であることから、自律的な責任感が醸成され、むしろ不適合は減少、稼働率も大幅に高まった。
 日本で重大な事故を防げなかった原因が、形式的な規制当局の規制活動と規制当局からの指摘をできるだけ免れようとすることに専念する事業者の行動パターンとの組み合わせにあったことを忘れてはならない。実は今こそ、こうした関係を断ち切るチャンスだ。規制当局は最低基準としての安全基準を策定することに止め、事業者がそれをクリアしたうえで自主的・自律的に、世界最高水準の安全性確保のためのハード・ソフトの両面での工夫を凝らしていくという関係を築くべきなのだ。実は、田中委員長自身もそうした立場を表明してきている。
 ただ、結果として「やはり認可事業者は信頼できない、規制当局自らが基準適合検査をさらに強化すべきだ」という風潮が強くなってきかねないのが日本の風土である。しかし、そうなってしまえば規制の実効性は失われ、形式的な適合性だけが重視される規制活動に戻ってしまい、本質的な原子力の安全性確保がないがしろにされかねない。それでは、元の木阿弥である。一方、原子力事業者側も、自律的な努力による安全性向上が実現するような工夫を、自らの社内組織ガバナンスや人事評価システムに埋め込む事が必要だ。
 原子力に対する信頼回復は、政権交代によってもたらされるものではない。それは、福島第一原発事故の反省に基づく原子力安全性向上に関する関係者の真摯な努力によってのみ可能となる。事業者は、「規制を遵守すればそれで十分」という意識からどう脱却するかに真剣に取り組まなければならない。そうした意識は、政府や規制当局への甘えの裏返しだ。また規制委は、羮【あつもの】に懲りて膾【なます】を吹いてはならない。そのような規制活動を志向すれば、結局ゼロリスクの罠に嵌まるか、事業者を叩けばいいという政治的な規制機関になってしまいかねない。

WEDGE Infinityより転載