第6話(3の3)「ポスト『リオ・京都体制』を目指して(1)」


在ウィーン国際機関日本政府代表部 公使

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(3)実際的な(pragmatic)視点
 第3に、実際的な視点である。

(イ)重層的な国際枠組み構築の重要性
 安全保障の世界において、平和を唱えていれば平和が実現されるわけではないのと同様、環境の世界でも、環境を唱えていれば環境保全が実現されるわけではない。理念を掲げつつ、現実の世界の動向を踏まえながら、理念の実現に近づくような具体的な制度設計、特に、時間と資源の有限性を認識しつつ、各国の政策、技術、資金、市場を効果的に動員できるような制度構築に取り組む必要がある。
 安全保障の世界では、安全保障理事会を中心とした国連の下での紛争解決という理念を維持しつつも、現実世界での安全保障上の脅威と国連安保理の限界を踏まえて、NATOや日米安保体制といった、利害を共有する国々が共同対処する軍事同盟を生み出した。これらの枠組みが、国連安保理との関係性を保ちつつ、それ自体、国際公共財として認知されるに至っているのは周知の通りである。
 国際貿易においても同様である。GATT/WTOは長年、グローバルな枠組みとしての役割を果たしてきており、その有用性は今後も変わらない。しかしながら、ドーハ・ラウンドがこの10年あまりの交渉にも関わらず、当面妥結の見通しが立たず、その一方で、世界各地で、EPA・FTAといった地域や二国間の枠組みの比重が高まってきた。日本もその例外ではなく、この間、アジア、中南米の国々とEPAを締結し、現在の最大の課題は、TPPへの交渉参加問題となっている。
 環境・気候変動分野の国際枠組みは、安全保障、国際貿易の分野に比べると歴史が浅い。それだけに、国連条約で謳われたグローバルなレベルでの理念が突出して強調され、地域レベルや二国間の取り組みは、グローバルな枠組みと相容れないのではないかと警戒感を持ってとらえられがちである。しかしながら、現実の国連交渉は、このグローバルな理念を十分に体現しているとは言い難い。現実に機能する制度の構築に不可欠な、各国政府・国民レベルのコモンセンス、皮膚感覚に浸透し切れていないように思われる。
 このような中、国連の下の「リオ・京都体制」の理念を尊重しつつも、それを「不磨の大典」とすることなく、様々なレベル(グローバル/リージョナル/バイラテラル)での実際的な協力を重層的、有機的に連携させる形で制度を構築していく知恵が求められる。

(ロ)気候変動対策における緩和と適応のバランス
 実際的視点の重要性は、気候変動問題への対処における、緩和(排出削減)と適応のバランスについても当てはまる。
 近年の気候変動交渉では気候変動対策における緩和と適応のバランス、特に脆弱国に対する適応支援の重要性が強調されている。しかし、かつての気候変動交渉では、緩和策により重点が置かれていたようである。温暖化が進むことを前提に適応対策を云々するのは、排出削減努力をあきらめるようなものであり、好ましくないとの考えによる。国連気候変動枠組条約の目的が人為的排出による温室効果ガスの濃度安定化にある以上、緩和策に重点をおく考えは、あながち変ではない。筆者自身も当初同じ考えを持っていた。防災、食料、水、保健といった個別分野での適応支援は、既存の開発援助の枠組みで扱われており、気候変動交渉で適応に焦点をあてることは議論の拡散につながり望ましくない、先進国、新興途上国を含めた世界全体での排出削減を促すことこそが、気候変動交渉の付加価値である。したがって、気候変動対策での途上国支援で緩和に焦点をあて、その割合が大きくなるのは当然だと考えていた。
 しかし、気候変動交渉の現場に出て、様々な議論に触れるにつれ、2つの理由からこの考えを修正するに至った。
 一つは国際交渉の力学上の理由である。国連交渉に出てくる途上国の圧倒的多数は脆弱国であり、彼らは自らが直接裨益する適応支援を望んでいる。脆弱国の動向が交渉を左右する以上、適応対策の比重が高まるのは交渉力学上、自然の流れであり、これを考慮しなくてはならない。
 もう一つは気候変動対策に必要な資金の適正配分の観点である。例えば、世界中のあらゆる気候変動対策に活用できる資金が一定規模(たとえば100億ドル)あるとした場合、如何なる対策に活用するのが最も望ましいであろうか。枠組条約の目的に照らせば、全額を緩和(排出削減)対策に投じるのは一つの考え方である(先進国国内でやるべきか、それとも削減費用の低い途上国で行うべきか、途上国で行う場合に発展段階に応じて如何なるタイプの資金協力で行うべきか、といった派生的論点があるが、ここでは立ち入らない)。その排出削減対策により、CO2等の濃度はいくぶん抑制され、気候変動の悪影響はいくぶん緩和されるのであろう。緩和効果は地球全体にあまねく拡がるので、人間には直接関係のない気候変動の悪影響(アフリカの砂漠での干ばつや、太平洋の無人島での海面上昇など)も、緩和されるであろう。そのような緩和対策と、同じ100億ドルの幾分かを生身の人間の生活に直接焦点をあてた対策、アフリカでの食糧確保のための干ばつ対策や、太平洋の小島嶼国の防災対策にあてるのとどちらが望ましいであろうか。コモンセンスに照らせば、後者に注力すべきと考えるのが自然であろう。
 とはいえ、緩和と適応のバランスをとることは難しい。適応支援重視の名の下では、特定の開発分野に利害を有する途上国、国際機関、NGOなどのステークホルダーが、当該分野と気候変動の影響を関連づけて、適応支援の重視(による当該分野への援助増額)を求めがちになる。これが行き過ぎると、既存の開発関連フォーラムと気候変動交渉との重複感が強まり、また緩和対策が脇に追いやられかねない。両者のバランスをとりながら、無限ではない国際支援のリソースを適切に配分する仕組みを如何につくっていくか、コモンセンスが問われる問題である。

(つづく)

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