新しい欧州排出権取引システムの落とし穴


国際環境経済研究所主席研究員、JFEスチール 専門主監(地球環境)

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 欧州連合(EU)では、2005年から温室効果ガスのキャップ・アンド・トレード型排出権取引制度(EU-ETS)を導入しているが、現在、第1期(2005~07年)、第2期(08~12年)に続く、第3期(13~20年)の制度設計が進められている。新制度は昨年末にその概要がまとまり、今春には、EU各国で審議、承認したうえで正式法制化されることになっている。ところが、この新しいキャップ・アンド・トレード制度に関して、『問題が山積みであり、施行すれば不満を抱く企業からの訴訟が乱発される懸念があるうえ、温暖化対策の効果の面でも疑問がある』との懸念が浮上している。

 問題を指摘したのは、2010年12月30日付の独シュピーゲル誌のオンライン版。 EU-ETSは欧州域内の主要産業を対象とし、EUの全排出量のおよそ半分をカバーする欧州温暖化政策の要の制度とされている。これを世界に先駆けて導入することで、他の先進国はもとより途上国にも同様の制度の導入を促し、世界的な排出権取引市場の創出をリードするというのが欧州の基幹戦略である。しかしシュピーゲル誌は、その肝心要の制度が「環境に資するものなのか、それとも単に負担の大きい官僚主義を生み出すだけのものなのか、誰にもわかっていない」と問題提起したのである。さらには「排出権取引が近い将来に世界的に拡大するという兆候はほとんどない」とし、欧州が突出して同制度を進めていることに疑問を投げかけた。

現段階で成果上がらず、第3期で挽回を想定

 すでに5年の歴史を持つEU-ETSだが、その実績は確かに芳しくない。2005年にスタートした第1期では、実際に企業が必要とする排出枠を大きく超えた排出権が無償で割り当てられた結果、『実質的に何の痛みも削減効果ももたらさなかった。むしろ、一部の電力会社などは、無償で受け取った排出権の価格を顧客に転嫁するという「タナボタ」利益を享受した』と社会的に批判された。

 京都議定書の第一約束期間に対応して08年から始まった第2期では、排出枠の無償配賦に関してより厳しい設定がされた。そのため、企業は少なくとも一部の排出権をオークションないしは市場から購入する必要に迫られ、実質的な削減も促進されるはずだった。ところが08年に起きたリーマンショックのために経済が停滞し、生産活動が大幅に縮小したため、ほとんどの企業が無償で配賦された排出枠を大量に余らせ、余剰枠が資産計上されるという「タナボタ」が再び発生している。08年以降の欧州産業の排出削減は、皮肉なことにETSではなくリセッションによって実現し、むしろ“有価”の排出枠を政府が必要以上に企業に無償で配賦したことにより、結果的に不況に苦しむ企業への補助金として機能したのである。

 こうしたさまざまな問題と一向に成果があがらない制度への反省から、13年以降の第3期においては劇的に厳しい排出枠抑制が計画されている。シュピーゲル誌は「最終の第3期において、排出権はついに希少なコモディティとなり、おそらくは社会主義の終焉以降で最大の経済的実験が始まることになる」と指摘する。政府が各企業に対して生産活動に必須のCO2排出量をトップダウンで決定・通知し、それを守ることができない場合は懲罰を加えるという新しい制度について、社会主義計画経済の再来を想起させる表現を用いているところが面白い。

 ETSの第3期においては、電力会社は必要なすべての排出枠をオークションで購入しなければならなくなる。ドイツ最大の電力会社RWE社を例に取ると、年間のCO2排出量が1.49億tに上り、これに相当する排出枠は現在の価格で計算すると20億ユーロを上回る。このコストが、電力料金として電力利用者に転嫁されることになる。

シュピーゲル誌が指摘する「細部に宿る悪魔」

 国際的な競争を強いられている鉄鋼や石灰、石油化学といった電力以外の産業では、国際競争力を考慮して多少の便宜が図られることになっている。このため、かなりの排出枠が無償で配賦される。しかし、ほとんどの企業では、必要とする排出枠の全部は賄えず、大なり小なり排出枠購入を余儀なくされることになるという。

 たとえば煉瓦業界の場合、無償配賦される排出枠の上限は、煉瓦生産1kg当たりCO2排出量144gと決められた。これは欧州の煉瓦産業の排出原単位を工場ごとに比較し、上位10%の効率を設定したものだ。要するに、すべての煉瓦メーカーは上位1割の効率的なメーカーに倣えという、一見、単純明快なルールである。しかし、シュピーゲル誌は「悪魔は細部に宿っている」と指摘する。

 「ドイツの煉瓦会社は、屋根タイルの上限内に排出を抑制するのは不可能であると抗議している。ベンチマークはスペインの生産施設の排出水準に基づいて決定されたが、これはスペインの技術が優れているからではなく、南欧の気候が温暖なためであり、屋根タイルが厳しい霜にさらされることはないスペインでは低温での焼成が可能で、結果として排出量が少なくなっている」と例示し、企業への無償排出枠割り当てが、産業の実態に合わず不公平なものになるという問題を提起している。

 こうした状況を背景に、同誌は「2013年以降、負担の増大とともに、不公正な扱いを受けていると感じている企業の間に訴訟を起こそうという機運が高まり、訴訟が多発する可能性が高い」と指摘する。実際ドイツでは、排出枠の設定が緩かった第1期でさえ、排出枠の設定に関して800件にも上る異議申し立てが起こされている。

 企業にとっては公平性だけが問題ではない。EU内の各企業は、無償排出枠を政府から配賦してもらうために、操業データの記録や整理など、膨大な事務作業を余儀なくされる。さらには、無償の排出枠の配賦と制度遵守の管理を行う政府側にも、気の遠くなるような事務作業が発生する。比較的緩い、現在の第2期でも、独排出権取引局(DEHSt)は、ドイツ国内の取引を管理するために120人の職員を抱えているという。

ETSが企業投資を阻害し、投機対象となる懸念

 さらに、シュピーゲル誌は、ETSが企業投資を阻害したり、投機の対象となったりする懸念を次のように指摘している。

 「ETSの第3期では、事業を拡大する会社が追加の排出権証書を受け取ることができるのは、生産能力を10%以上拡大する場合に限られる。換言すると、生産能力拡張が10%に満たない場合は、すでに与えられている排出権割当量の範囲内でやりくりしなければならない。結果として、排出権取引により成長が阻害される可能性がある」

 「排出権取引は排出権証書の価格動向に賭ける投機家にとっての金脈となる可能性もある。CO2市場はまだ小規模で規制も厳しくない。トレーダーに対するポジションの制限、すなわち売買可能な契約の量に対する制限も存在しない。事業会社は価格変動に適応せざるを得ないため、力のある金融トレーダーが意のままに価格を動かし、排出権証書に依存する事業会社に悪影響を与える可能性があるという懸念もある」としている。

 つまり、排出権取引はインサイダー取引や投機の温床になりかねないというわけである。企業は生産活動に必要な排出枠のコストが乱高下する中、製造原価も予想できないまま生産計画を策定しなくてはならなくなるのである。

欧州国民に投げかけられたシュピーゲル誌の警鐘

 最後に同記事は、この複雑怪奇なETSが導入された背景を皮肉交じりに分析している。炭素排出に価格をつけて排出抑制を図るだけであれば、もっと単純でコストもかからない代替策がある。例えば化石燃料の経済への流入段階で、炭素含有量に比例して価格付けされた排出権の購入義務を、石油精製、ガス供給、石炭生産者などの炭素供給者に課すという、いわゆる「上流方式」とよばれるものである。

 「しかし、この代替案はすぐに却下された。欧州の政治家は、気候保護の真のコストを市民や企業に容赦なく突きつけた場合に起こる事態を恐れたとみられる。その代わりに多くの矛盾にも関わらず政治家が望んだのは、この複雑なシステムであったのである」

 結局、欧州がめざす温暖化対策の真のコストは、排出権取引というもっともらしい制度の背後に巧みに隠され、EU-ETSの第三期がはじまる 2013年まで顕在化しない。欧州国民や有権者は、自分達が負担すべきコストが目に見える形で明らかになったとき、はじめて、欧州が巨大で複雑怪奇な EU-ETSという猛獣を野に放ってしまったという事実に気づくことになる。その修復のためには、欧州社会が社会主義という立派な理念に基づく壮大な社会実験の失敗から1990年代に立ち直るのに要したのと同様の痛みや混乱というコストを支払わなければならないのかもしれない。シュピーゲルの記事は、そうした警鐘を2010年末のクリスマス休暇を過ごす欧州国民に鳴らしたのである。

(注記)シュピーゲル誌の記事全文の邦訳は以下のサイトで閲覧(http://www.21ppi.org/archive/sawa.html)できます。本文中のカギカッコ内は、同記事からの引用です。

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